鬼と鉄の伝承

 中条村に伝わる昔話の中に記載されている伝説及び伝承の中に中条村の中世期以前からの歴史の一部が隠れているように思われます。
 今回は伝説、伝承そして地名より中条村の古の真実を探ってみたいと思います。

伝説1:長者伝説(朝日夕日伝説)

<中条村のむかし語り−P70より>

『原の一本松』の中に「・・・・・、それとも虫倉山に伝わる“朝日長者”が埋めたのか・・・」のくだりがあります。そして、下段の解説には
◆長者伝説(朝日夕日伝説)長者昔話
◇富豪の栄枯盛衰を語る伝説で、各地に分布し、屋敷跡などの遺跡とも関わる。長者の話には、多量の黄金がつきまとう。朝日夕日伝説の場合は、長者は死ぬ前に、その財宝を土中に埋め、そのありかを人に隠して、謎のような歌を読んでおいた。「朝日さし夕日かがやく木の本に」という歌で、この歌
に迷わされて、無益の土堀りをした人が沢山いたという。
◇長者伝説では、長者を実在の人とし、長者没落の悲劇を説くことが多いが、長者の昔話に出る炭焼長者は、黄金の石を発見して幸運を得る。この昔話を運搬したのは鋳物師であるという。

伝説2:足粒

<中条村のむかし語り−P79より>

足  粒

 里原の堀内光徳さんの裏に、「足粒」と呼ばれているところがある。ここは「デイダラ」と呼ばれ、立ち上がれば雲の上に顔が出るほどの大男の足跡だと、昔からいい伝えられている。この大男のことを「鬼」という人もいる。
 その昔、デイダラという大男が、虫倉山の麓の丸山を背負い、杖突き岩を杖にしてやってきた。こここ里原の「足粒」と、信州新町冨士浅間神社南方の鬼毛にある。「足粒」とに、両足を踏んばり、手洗の沢で手を洗おうとした。ところが、水が少なすぎて洗えなかったので、犀川まで手をのばして洗い直したと伝えられていた。しかし、『信州新町々史』には、「鬼の足跡」という見出しで、次のように記されている。
 冨士浅間神社東南に、「鬼の足跡」といわれ、またダイダラボッチと古老等がいった、約一畝歩(百平方b)位の凹地がある。形は人の足跡に似て、足先は南方に向いている。これと一致している伝説が、中条村百瀬のあるダイダラ(鬼)という巨人が、犀川の水を手で掬いあげて飲もうとしたときの足跡という。
 そこで、百瀬の古老達に聞いてみたが、当地ではそんな話は聞いたことはないという。そこでだんだん調べてみたら百瀬地籍に「芦(ヨシ)の窪」という地籍が現存していた。案ずるに、「足の窪」が「芦の窪」と字を置きかえられ、芦(アシ)は悪しに通ずるゆえ、芦(ヨシ)と読みかえられて、足の窪が芦の窪となり、ダイダラの足跡の話が忘れ去られたものと思われる。
 さらに、日下野(クサガノ)にも芦の窪(久保)という地名があり、五十里にも芦沼、芦島の地名があるが、デイダラにまつわる話は伝えられていない。

 朝日夕日長者伝説の解説の最後に“この昔話を運搬したのは鋳物師である”とされています。
 これにあるように、この伝説は日本各地にあるようで伝播者は鋳物師、鍛冶工、修験者とされています。
 そして、伝説2:足粒にある“デイダラ”、“鬼”、“足粒”、“芦の窪”とは何でしょうか?
そして、鋳物師、鍛冶工、修験者と足粒の中に出ている名との関係は?
           次に続く・・・・・・・・・


幻の大町線・・・・・篠ノ井線との比較検討線

 今、長野市と松本市を結ぶ鉄道線路と言えばJR篠ノ井線です。
 篠ノ井線は中央本線の塩尻と信越本線の篠ノ井を結ぶ全長67.4kmのJR線です。
 中央本線の一環として政府が計画し明治35年(1902年)に全通した官設鉄道で県下では信越本線に次いで早く建設されました。
 県都長野と県下2番目の大都市松本を結ぶ重要な使命を担っています。
 明治27年5月召集の第6回帝国議会で一期線に格上げされ、八王子ー名古屋間鉄道との同時着工が決定されました。
 この篠ノ井線のルートが決定されるまでには、5つのルート案が議論されました。その5つのルート案のひとつに中条村を通過するルート大町線が比較線として検討されました。
 その検討経緯とどのように誘致活動が行われたか自治体の史料や文献等を参考にして述べてみましょう。

塩尻市史より抜粋

 (二)篠ノ井線

 日本の鉄道史には次のように記述されている。

(1)敷設の経緯
    篠ノ井線ハ鉄道敷設法第二条ニ依リ中央線ニ属スル同法第七条ノ第一期線ニ属セザ
    リシカハ政府ハ第六回帝国議会ニ鉄道敷設法追加案ヲ提出シ某協賛ヲ経テ明治二十
    七年法律第十一号ヲ以テ同法第七条ニ「長野県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ第
    一項ノ線路ニ接続スル鉄道」ヲ加ヘ又長野若クハ篠ノ井ノ比較線中篠ノ井線ノ決定ハ
    同議会ノ協賛ヲ経テ法律第十二号ヲ以テ公布セラレタリ。面シテ篠ノ井線ト八王子名
    古屋線トノ接続点ヲ塩尻トシ篠ノ井塩尻間鉄道建設費三百五十九万七千四百七十
    円ハ二十八年度以降三十一年度ニ至ル四ケ年間ノ継続費トシテ第九帝国議会ヲ通
    過シタリ。
    線路概況 篠ノ井線ハ信越線篠ノ井停車場ニ起リ塩崎姨捨ヲ経テ麻績ニ向フ此間最
    急勾配三十分ノ一ナリシガ最後ノ調査ハ之ヲ四十分ノ一トセリ姨捨停車場ハスイッチバ
    ックノ方法ニテ之ヲ設ク麻績ヨリ西条・松本ヲ経テ塩尻ニ至ル。全線四十一哩五十四鎖
    三十五年度ニ於テ改測シ之ニ三十二鎖ヲ増スニシテ橋梁三十四ケ所墜道九ケ所ヲ算
    シ姨捨麻績間ニ於ケル冠着墜道ハ長サ八千七百十四呎、西条明科間ニ於ケル第二
    白坂墜道ハ六千八百三十七呎トス。
    比較線 篠ノ井線ニ対スル比較線ハ長野ヲ起点トシ笹平・新町・潮ヲ経テ松本平ニ至
    ルモノト、
長野ヲ起点トシ笹平・小根山・大町・穂高ヲ経テ、松本ニ至ルモノ二線ア
    リシガ篠ノ井ヲ起点トシ麻績ヲ経ル線ニ此シ九哩乃至十四哩ヲ増シ工費亦一二十万
    円以上ヲ加フルヲ以テ明治二十七年法律第十二号ニハ篠ノ井ヲ起点トスルモノヲ決定
    線トセリ。

(2)地方人士の活躍   江戸時代より善光寺街道として栄えていた筑北地方の街道は明治の
    なって廃道となり、新たに七道明治一五年一二月議決七年計画開けて県下交通の要
    路となったが、長野松本を連絡する新道は長野より上田を経て松本に通ずる今日の二線
    路明治二三年として新設された。この時筑北の人々は善光寺街道一本線などを県当局
    に向かって要請したが失敗に帰した。
    明治二一年一二月に信越線が開通し再び中央線が予定される運びとなり、信越線と中
    央線を連絡する線路が予定される動きを早くも察知した筑北の人々は鉄道誘致の運動
    に乗り出し、たまたま鉄道庁の牛丸技師一行が比較線調査のため長野に来たので早速
    陳情することとなった。当時の状況を「高日本」は次のように報じている。

     今日松本市の片倉製糸に勤務している柳沢角平は当時を語って曰く、明治二十年であったか二一年であ
    ったか、確か二十二年より前であるが、長野の犀北館へ麻績の藤原喜之作(三十才頃)・林静三(三十才頃)
    日向村の高野兼吉郎、坂北村の青柳八郎、山崎康衛、本城村の宮川嘉七郎諸君、それから坂井村からは
    私(三十才頃)と七名が集まって種々熟議をこらし代表として藤原・林の両名を推し、藤屋ホテルに鉄道技師後
    の鉄道技官石丸重美を訪問陳情といふことになった。(以下は藤原・柳沢両名の談話の綜合である。)石丸技
    師曰く「旧善光寺街道は私も二、三回通って知ってゐるがあの峠、又峠の道では到底鉄道は敷けまい。犀川の
    方は通って見ぬが川沿ひであり必ず出来るであらう。此際善光寺街道の方は断念されたがよからう」と。代表曰く
    「ご尤ですが、其のお歩きになった道路の外にまだ道路があって、西条から白坂と申す峠一つ越せば川手と申す
    所へ出ます。之は昔川手新道と申し、少し遠いが、此の方は白坂一つあるだけで平坦です」と種々意見を陳情
    した。石丸技師も代表の熱意面にあふるゝを見て大いに動かされたと見へ「そんなに熱心に言いはるゝなら兎に角
    一通りの図面を作ってお出しなさい。其の上で成るべく好意の取計らいをしませう」と。代表が帰って一同に報告
    すると、光明見えそめたりと一同は雀躍して引上げ、早速坂北村の住人宮沢静馬の養子であった佐山政義とい
    う元測量技師であった人に頼んで、藤原も共に踏査をし、其の図面を携えて上京再び石丸技師を訪問し盛に
    陳述する所となった。石丸技師は之を熟視して「之は案外よさそうだ」と。やがて鉄道当局の測量技師は此の線
    の実測に派遣されて来たのであった其の結果犀川線に比して線は遙に良好なることが発見され、遂に此の線の
    採用となり、それから議会の運動其の他種々の運動を経て篠ノ井線なるものは中央線の第一期工事に組入れ
    ることとなったのである。  

   このように書けば簡単であるが、当時地方有志の苦心は非常なもので、一身上のことをすて
   て費用は一切自辧、家財をも傾けての努力であった。
    前掲篠ノ井線比較線のうち犀川沿い二線も姨捨麻績を通過する線もともに松本に至る
   ので、松本地区の住民には何処の地域を通過しようとあまり関係はないのであるが、犀川線
   となるか篠ノ井線となるかは筑北人に取ってはその死命を制する大問題であり、憂慮に堪え
   ぬ大関心事であったので、篠ノ井線の誘致のため非常な努力を傾けたのである。佐山技手
   の手になる実測図は起点を篠ノ井に取り松本まで延長三三哩二〇鎖(約五二.八キロメー
   トル)冠着(かむりき)・白坂の二大トンネルと一小トンネルの三個を穿ち、他は迂回して工費
   の節減を考慮し、勾配・距離・高さなども各地区ごとに調査された精密な苦心の踏査実測
   図で、現今の篠ノ井線も大体これに添って敷設されている。鉄道当局は明治二六年五月
   に線路調査のため出張実地踏査をしている。

(3)工事繰上げの運動  鉄道敷設法第二条によれば、篠ノ井線は中央線に属してはいるもの
   の第一期線には加えられていなかったが、当時職者の間に中央線より先に着手開通の方が
   有利であるともいう議があった。すなわち、篠ノ井、塩尻間犀川沿い敷設の工費は佐分利
   技師の概算では三百万円の見込みであったが、八王子塩尻間千三百万円に比べる
   とその差実に壱千万円である。財政多事の折でもあり、篠ノ井線の敷設をするならば
   八王子線は延期するも支障ない。この際本法を一部改正して第一期線に繰上げようという
   ものであって、この運動は全郡をあげて幾度か展開された。中央線木曽線に活動した上京
   委員前述につづいて松尾義重・中村宗太郎・清水澄重・渡辺勝用らが上京して第五議会
   開会中の代議士窪田・金井両名を督励して各方面に運動を展開して賛意を求めた。松
   本市史は当時の状況を吉江久一郎談として次のように記述している。

    

     時概に議会閉会に近づき尋常手段にては間に合はぬ故、当時何人も気づかざりし書状体の主意書と八王
     子塩尻間及篠ノ井塩尻間の工事概算比較表を印刷し、小里頼永・吉江久一郎の名義にて貴衆両院及当
     路関係方面へ配布せり。そは実に閉会三日前のことなり。其翌日即ち廿六年二月二十日衆議院にて島田三
     郎は緊急動議を提出し、此比較表を振り翳し、今や必要ある鉄道工費多額に上り支出困難なる際なれば、
     其節減に能うかぎりは調査考究すべきものなり。依て篠ノ井線は直に再調査に附すべしと絶叫せられ、多数賛
     成の下に本院を通過せり。斯くの如く幸に其使命を果せしも中頃より送金途絶え吾々は非常に困厄せり。

    明治26年10月東筑摩郡町村長会は次のような議決に基づき、政府に対して鉄道敷設法
   の一部を改正し篠ノ井線を第一期線に加入せられたいとの具申を行っている。

鉄道問題決議書

 第一条  中央鉄道連絡線問題ハ本郡各町村直接間接ノ有無ヲ問ワズ郡問題トシテ協同尽力スル事
 第二条  本問題ノ目的ヲ達スル為メ松本町ニ鉄道運動事務所ヲ設ケ左ノ担当員ヲ置ク事
   幹事五名    書記壱名
 幹事ハ旧一大区ヨリ壱名ヅツ主動者ニ於テ選挙シ書記ハ幹事ノ選挙ニ任ス
 第三条  各町村長ハ鉄道運動ニ付主動者トナリ郡長ヘ事務及ヒ費用出納ノ監督ヲ委嘱スル事
 第四条  上京スル運動委員ハ三名トシ議会開会廿日前発セシム事 但選挙ハ主動者ニ任ス
 第五条  運動ニ関スル費額ハ壱千三百円トシ其ノ区別左ノ如シ
   金六百円  上京委員三名往復滞在共一百日分
   金四百円  右運動上必要諸費
   金三百円  事務所諸費
 右徴収方八十円中ニ於テ一時ニ収纒ス
 各町村ヘ引分ケ方法ハ総金額ヲ三分シ其一分ヲ戸数一分ヲ地価一分を二十五年度営業税雑種税ヘ割合モノ
 トス
 
  附則
 幹事日当ハ一日金五拾銭トシ旅費ハ往復一里毎金拾銭ヲ交付ス
 右東筑摩郡各町村長会ニ於テ議決ス
 明治二十六年十月一日
   具申書
 謹ンテ明治二十五年法律第四号ヲ以テ発布セラレタル鉄道敷設法ヲ按スル其第二条中中央線ノ部ニ於テ「長野
 県下長野若クハ篠ノ井線ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続スル鉄道」ノ一項アリ抑該線ハ東海東山北陸ノ三大道
 ヲ串聯セシムル要衝ニシテ苟モ本州ノ縦貫線ヲ完成セシムルニハ誠ニ欠ク可ラサル至要ノ線路ナリ、加之本線ノ敷
 設ハ啻ニ国家ノ経済上行政上ニ於テ最大利便ヲ得ルノミナラズ所謂中央線即チ八王子名古屋間ノ線路ヲ速成セ
 シムル上ニ於テ其便益亦尠ナカラサルナリ。而シテ線路ノ概況ヲ察スルニ山間鉄道ニ在ツテハ距離只四十六哩工
 費僅カニ三百四五十万円ニ過キサルハ不肖等ノ固ク信シテ疑ハサル所ナリ、然ルニ誤ツテ同法第七条中ニ洩テ第
 一期間着手工事ノ部ニ入ラサリシハ国家ノ為メ一大欠典ト云ハサル可ラス故ニ不肖等ハ同法改正ノ必要ヲ感シ
 大ニ之ヲ輿論ニ訴ヘシニ輿論モ亦之ヲ認メ第四議会ニ於テ終ニ各比較線ノ決定ト共ニ第五議会ニ延長シ其間十
 分ノ調査ヲ為ス「ニ決シタリ、兩来当局者ハ孜々トシテ事ニ実測ニ縋ヒシカ風カニ聞ク所ニ依レハ其得ル所不肖等ノ
 信スル所ニ違ハサリシト云フ、果シテ然ラハ該中央聯路線ハ第一期工事中ヘ加入セラル可キモ設ヒ否ラサレハ啻ニ
 国家百年ノ長計ヲ失フノミナラス地方亦不幸今日ノ不便ニ止マラスシテ一層困難ノ地ニ陥チントス、苟モ不肖等職ト
 シテ之ヲ坐視停観スルニ忍ヒサルナリ、此ヲ以テ第五議会ヲ挨ツテ同法ニ改正ヲ本線ヲ第一期着手工事ノ部ニ入レ
 第一着手ト為ス「実ニ国家ノ為メ切望ニ堪エサルナリ、仰キ願クハ閣下速ニ改正按ノ提出ヲ画セラレン」ヲ右謹ンテ
 具申ス
  明治二十六年十月
 
                                  長野県東筑摩郡
                                           松本町長   菅谷司馬
                                           各村長     略

  以上の具申書は内務大臣伯爵井上馨あてに五通、逓信大臣伯爵黒田清隆あてに五通を作成して当局に陳情を試みた。なお政府への運動資金は町村割当の千三百円では不足なので、郡下の有志に篠ノ井線工事繰上げ運動の檄を飛ばし十月一日議決の鉄道請願者幹事の名において資金を募っている。このような運動の結果鉄道庁は牛丸技師を派遣して本線の調査を行った。明治二六年三月に来信した技師は犀川線・大町線・保福寺線・三才山線・篠ノ井線の比較調査を行い六月に報告書を提出している。翌明治二七年六月の第六議会において中央線の木曽通過を採択すると同時に現在の篠ノ井線を決定し第一期線に繰上げることを決議して法律第一二号をもって公布することとなった。こうして地方有志多年の苦心は実り当地域の人々の熱望は達せられることとなったのである。

以上、ー塩尻市史よりー

 当時の筑北住民を代表する有志は並々ならぬ熱意の誘致活動を行ったようです。
 長鉄局の20年史にも”有志たちは中央線の西筑摩線誘致に活躍した上京委員を増強し、窪田畦夫代議士らを督励して議会に働きかけた。この結果、明治26年2月10日「篠ノ井線再調査ノ件」が衆議院を通過し、篠ノ井線案が大きく浮かび上がることになった。”と記述されています。
 1893年当時、鉄道誘致の決断を下した先見の明には脱帽です。当時、鉄道敷設において用地買収は不買運動や反対運動にあい困難を極め、迂回路を余儀無くされることもしばしばだと多数の史料に記述されています。当然、筑北地区でもそれはあったでしょうが、良く住民の意志をまとめあげたものです。

第三節  鉄 道  (信州新町史より抜粋) 

一、 鉄道と当地方の経緯

     当町には鉄道はないが、明治初年わが国に鉄道敷設計画がはじまった頃、信越線と中
    央線を連絡する鉄道敷設について犀川沿線の当地方も実地踏査が行われたのでその経
    緯について述べる。
      わが国最初の鉄道が、新橋、横浜間に開通したのが、明治五年九月十二日である。
    東西両京を結ぶ幹線鉄道を東海道、中山道のいづれを通すか比較調査が明治三年か
    ら工部省傭英国人建築師長ボイルを中心とする調査員によって進められていた。犀川沿
    線の調査もその当時からである
     明治七年八月、ボイルほか調査員が、松本より犀川を通舟で下り、新町に滞在、信更
    町安庭まで船で下り、さらに丹波島まで踏査を行った。その人足、賄料等について、新町
    村より次の届書が提出されている。 

          記          (尾沢定俊蔵)
                     鉄道建築司長
                      外国人御雇
                         ボイル  夫婦
                      外国人御雇
                         書記リベイロ
                      技術掛り
                         小野友五郎
                         長沼 種同
                      会計掛り
                         上田 勝造
                         飯沼 昭義
                      外ニ 召使之者
                          五人
                         乗馬  弐疋
                         口取  弐人
前書御名当本月十五日筑摩県御菅下松本町御発足通船ニ而同日午後一時御着御止宿罷成候此段御届ケ奉申上候以上

 第二十四大区五小区  
水内郡新町村  
村用掛   
明治七年第八月十五日                                         山本嘉市
 同     
尾沢喜助
   長野県参事  曾崎寛直殿                                            

八月十五日朝ヨリ鉄道懸リ御宿相頼万事世話手伝迄遣シ其ノ上見舞届申候御宿ハ大内治作久保慎兵衛両家ニ有之候、十六日猶両家ヘ見舞人足等差遣シ・・・・・中略・・・・・猶小松原ヘ御用状差立使佐々木為右エ門、十七日通船ニ而安庭迄御下リエ付船用意同日朝五時発足ニ而案内人山田文七森茂樹両人罷越申候丹波島ヨリ篠ノ井通リニテ午後二時頃帰宅夫々賄料并人足料御下ゲ翌十八日猶通船ニ而安庭迄御下リ御荷物人足十二人馬五疋十八日五時御出立相成申候其ノ日ハ跡勘定仕夫々払方迄仕リ候所六両弐分程村方仕弁ニ相成申候(後略)

 以書付御届ケ奉申上候   (氏名前掲に同じにつき略)

前書御名当本月十五日筑摩県御菅下松本町御発足通船ニ而同日午後一時御着御止宿之上鉄道検地被懸同十八日午前五時御発足罷成右御賄料品物御買上料共金弐拾銭三厘七毛御払下ケ相成候得共村方仕弁費金六円四十八銭壱厘九毛相懸リ申候此段届ケ奉申上候           以上

第二十四大区五小区      
明治七年八月二十日                                     水内郡新町    
代議人  山田 文七
村用懸  尾沢 喜助
北第二十四大区副区長                                             
  大日方 直恕殿                                               

 明治二十一年に信越線が開通し、篠ノ井停車場は八月十五日開業した。その頃中央線敷設も予定されていたので、信越線と中央線を連絡する鉄道敷設の運動が起り、何処を通すかが問題となった。当時、現在の篠ノ井線、それと、長野を起点として笹平、新町、潮を経て松本に至る犀川線、長野を起点として笹平、小根山、大町、穂高を経て松本にる大町線の二線あげられていた。なお長鉄局二十年史には、「明治二十六年三月、篠ノ井線、犀川線、大町線、保福寺線、三才山線の五線をとりあげて比較調査を実施、同年六月その報告書を提出した」と述べている。それぞれ関係地域の住民は鉄道誘致の運動にのりだしたのも当然のことであった。最終結果は、篠ノ井線と決まり、犀川沿線も除外となった。「鉄道が通っていればこの地帯の、産業も、文化ももっと発展していたであろう。」と哀惜の情を禁じ得ないむきもある。
 当時、犀川沿線の農民が鉄道が通れば、「田畑や山林の潰地が多いこと、桑葉など作物に煤煙の被害があって養蚕もできなくなる」と反対説が強く、除外の理由になったなどとも伝えられているが、そういうことよりも、調査の結果不利な点が多く、職者の誘致にけん命な努力も酬いられず、ついに実現できなかった経緯が後述の資料によって知ることができる。
 この比較線決定について日本鉄道史には「篠ノ井線ニ対スル比較線ハ長野ヲ起点トシ笹平、新町、潮ヲ経テ松本平ニ至ルモノト、長野ヲ起点トシ笹平、小根山、大町、穂高ヲ経テ松本ニ至ルモノ二線アリシガ篠ノ井ヲ起点トシ麻績ヲ経ル線ニ比シ九哩乃至十四哩ヲ増シ工費亦一百二十万円以上ヲ加フルヲ以テ明治二十七年法律第十二号ヒハ篠ノ井ヲ起点トスルモノヲ決定線トセリ。」とある。
 長野県政史には、「明治二十七年六月の第六回議会において、中央線の木曽通過を採択するとともに、同時に犀川線、大町線に比較して工費が安いという理由で、篠ノ井線を決定し第一期線に繰上げることにした」と記されており、長鉄局二十年史でも同様に述べている。
 住民運動では、松本地域の住民には、この比較線がいずれの線路と決っても、松本に至ることは確実であるのであまり関心がなかったようであるが、犀川沿い住民の要望も強かったように築北住民も篠ノ井線誘致のため強力な運動を続けたのである。たまたま鉄道庁の石丸技師一行が比較線調査のため長野に来た際、筑北の青年有志七名が集まって塾議の上、藤屋ホテルに鉄道技師、後の鉄道技官石丸重美を訪問陳情した。その記録を東筑郡誌から紹介しておく。
 『石丸技師曰く「旧善光寺街道は私も二、三回通っているが、あの峠又峠の道では到底鉄道は敷けまい。犀川の方は通って見ぬが川沿いであり必ず出来るであろう。此際善光寺街道の方は断念されたがよかろう」と。陳情代表曰く「ご尤ですが、其のお歩きになった道路の外にまだ道路があって、西条から白坂と申す峠一つ越せば川手と申す所へ出ます。之は昔川手新道と申し、少し遠いが、此の方は白坂一つあるだけで平坦です」と種々意見を陳情した。石丸技師も代表の熱意面にあふるるを見て大いに動かされたと見え「そんなに熱心に言はるるなら兎に角一通り図面を作ってお出しなさい。其の上でなるべく好意の取計いをしましょう」と。代表が帰って一同に報告すると、光明見えそめたりと一同は雀躍して引上げ、早速坂北村の元測量技師佐山政義に頼んで踏査し、其の図面を携えて上京再び石丸技師を訪問陳情した。石丸技師は之を熟視して「之は案外よさそうだ」と。やがて鉄道当局の測量技師は此の線の実測に派遣されて来たのであった。其の結果は犀川線に比して此の線は遥に良好なることが発見され、遂に此の線の採用となり、それから議会の運動其の他種々の運動を経て篠ノ井線なるものは中央線の第一期工事に組み入れることとなった。』と述べている。
 なお第一期線に繰上げたこと、筑北地域の運動について、長鉄局二十年史はつぎのように述べている。
 「もともと篠ノ井線は、鉄道敷設法の第一期線たる中央本線に次ぐ第二次の予定線に位置付けられていたのに、結果から見れば中央線全線に先だち明治三十五年十二月十五日に全通となった。篠ノ井線がこのように幹線に先行できたのは、甲信越の鉄道網を構成するうえで、信越、中央両線の中間にあり、中央本線中部の工事を促進するためにも必要だったからであった。(中略)明治二十六年四月一日に開通した碓氷峠の輸送力不足問題が直接の動機となり、この枝線の建設を早めることになったのである。鉄道招致にもっとも熱心だったのは、麻績村を中心とする東筑摩郡北部地域であったが、これを全郡的な運動にまで高め、政府、議会に対し激しい運動を展開した。その後更に東筑摩郡の有志たちは、中央線の西筑摩線誘致運動に活躍中の上京委員を増強し、窪田畦夫代議士らを督励して議会に働きかけた。この結果、明治二十六年二月十日、篠ノ井線再調査の件が衆議院を通過し、篠ノ井線が大きく浮かび上ることになった」。
 このように重要な線路であり、この地方に関係の大きい線路であったから、犀川沿線の住民は、この決定にあきらめきれず、水内村長塚田梅吉代表者は、犀川線に変更採用してほしいと、請願書をもって陳情している。

 比較検討線5線のうちのひとつ犀川線も有力な候補だったが、工事の難易及び工費のうえで不利として決定されませんでした。
 これについては、信州新町史にも述べられているように、農地・山林が潰れることと、当時の産業の養蚕の桑が煤煙の被害により、産業がダメージを受けるなどとして、反対があったとしています。しかし、ある向きによれば、それは表向きであり、当時の筑北地区の誘致活動に比し、犀川沿線の活動は低調で、それの言い訳として当時の行政による流布ではないかという意見もあります。
その真偽はいかに・・・・・
 そして、大町線ルートはどうかといえば、昭和一桁代の方に鉄道誘致のことを聞いたことがあり、やはり優良農地が潰れる、桑が汚れるなどの理由で反対があったようです。中条村史には鉄道についての記述が無く、現時点では経緯について公文書上では不明です。
 この大町線ルートを支持していた地域の人々がいました。大町、安曇野の人々です。長野・塩尻ルート建設の5案のひとつである大町線ルートを支持したのですが、長野ー大町間は上水内西山部の山間地域を通るため建設が大変困難を極めるとして議論されました。(工事の難易と工費増との理由により)その結果は、現行の篠ノ井線として議決されました。
 もし、当時の官設鉄道(国鉄からJRまで)が中条村地域を通っていたなら、この地域はどうなっていたでしょう。(もしや仮定はありえないことなのですが・・・・但し、過去の事例を考察し、未来に活かすことは必要ではないかと思います。)
 長野と中信方面の都市を結ぶ鉄道輸送路の一通過点とした位置にあるでしょう。地理的に考えたならば、駅が設けられただけで村が飛躍的に発展するとは言い難いと思います。
 しかし、移動手段のひとつとして村の環境は違っているでしょう。現状よりは人口・都市のベットタウン化・付随して産業も活性化していたでしょう。
 先を見ることは難しいものです。先々は誰にもわかりません。
 ”温故知新”
 村のたどった歴史を知り、未来に役立てたいものです。

−終−


わが村の風林火山

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白樺湖にある虫倉信仰

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