『東日流外三郡誌』近年の動向(2005年をふりかえって)
原田 実 扉にもどる
今こそ偽作説の徹底が必要!
1993年3月22日、青森古文書研究会の当時の会長・鈴木政四郎氏と同じく当時の副会長・佐々木隆次氏による記者会見は『東日流外三郡誌』問題に一大画期をもたらした。事実上、これによりいわゆる和田家文書が和田喜八郎の偽作であることは証明されたといってよい。同年、『サンデー毎日』誌上で展開された安本美典(偽作説)・古田武彦(真作説)論争や、『季刊邪馬台国』51号以来の『東日流外三郡誌』特集はこの記者会見が一つの契機となって始まったものである。
その記者会見から早や13年、いったん偽作であることが確定したために和田家文書への社会的関心が薄れ、かえって偽書説に関する情報が行き届かない、という状況が生じてきたようだ。
今のところ、『東日流外三郡誌』偽作説をテーマとする書籍で、21世紀に入ってから一般向けに刊行されたものは、三上重昭著『「東日流外三郡誌」の真実』の1点しかない(註1)。
そのため、たとえば次のようなコラムがウェブ上に現れることになる。
「青森の藤本光幸さん。青森で寛政年間の古文書がみつかった。その解読をしている。古事記や日本書紀ほどの古いものではないが、驚いたことにそれにはメソポタミアだのギルメッシュなどと世界の古代史が書かれている。いま母校小野教授のご指導を受け、歴史の勉強のしなおしをし、解読し調べている。なんと4716冊からなるものであり、日本の古代史も書いてあるが、この記録は日本に渡来人がいたことを示している。同伴された奥様は、“古文書に夢中なんです、少しは家業にも励んでいただかない困ります”と言われる」
これは早稲田大学政治経済学部昭和28年度卒業同期会のHPに掲載されたものだ。2004年4月10日に開催された同会懇親会での近況報告だという。
藤本氏が解読をしているという「寛政年間の古文書」なるものが和田家文書であることは言うまでもない。早稲田政経の卒業同期会となれば、そこの集う多くは十分に知性と学識を兼ね備えた人々であろう。そのような団体でも、情報の不足からあっさり偽書の宣伝に利用されてしまったわけである(註2)。
さらに最近では『ムー』などのオカルト雑誌にふたたび『東日流外三郡誌』を真正の古文書とみなし、その内容を肯定するような記事が出てきた。この種の雑誌の主な購買層は10代、20代の青少年であり、彼らの多くは10年以上も前に行われた論争のことなど知らない。だからこそ、編集部としても『東日流外三郡誌』がらみの記事を安んじて掲載できるわけである(註3)。
この状況を鑑み、今こそ、改めて和田家文書の偽書説を世に問う必要があるといえよう。
西暦と元号のはざまで
さて、古田武彦氏の支援組織の機関紙『多元』69号には、藤本光幸氏が「平成15年に東奥日報社の斉藤光政記者に送った手紙の内容」なるものが資料として掲載されている(註4)。その中で藤本氏は『東奥日報』に掲載された三郡誌批判記事について証人の証言に誤りがあると主張する。
まず藤本氏は故・和田喜八郎の親族(原文・実名、ここでは仮にA氏とする)が「古文書が落ちてきたとされる47年ごろ私はこの家に住んでいましたが。そんな出来事はありませんでした」と証言したことに対し、次のように述べる。
「古文書が天井から落ちてきたのは、昭和22年頃であり、しかもその頃、Aは和田喜八郎の隣に住んでおり、屋敷の境界争いの事で、和田喜八郎と訴訟をしております」「したがってAは、古文書が落ちてきたとされる、その当時住んでいません」
また、安本美典氏がやはりA氏の「存在しない文書がありもしない天井を突き破るわけがありません」という証言をとりあげていること(註5)に対し、次のように述べる。
「(安本氏は)『和田家文書』の落下が昭和22年8月であることを知らないで、昭和47年ころと思っているのです。そのような誤謬があるのです」
だが、この件で誤謬を犯しているのは『東奥日報』誌や安本氏ではなく、藤本氏の方である。A氏の証言にいう「47年ごろ」というのは西暦で1947年のことだ。つまり昭和では22年にあたる。一方、藤本氏が「47年ごろ」について「その頃」起きたとみなす和田喜八郎とA氏との訴訟は昭和47年(西暦1972)頃の事柄である(第一、1947年にはA氏はまだ子供で訴訟をするどころではない)。
つまり、藤本氏は西暦で書かれた証言を元号(昭和)で書かれたものと読み違えて論難しているのだ。
現在の新聞記事では特にことわりがない限り、年号は西暦で示すのが常識なのだが、藤本氏はそれを理解されていなかったようだ。
また、藤本氏は『東奥日報』記事が私の証言をとりあげていることについて、次のように述べる。
「(原田実は)聞く所によれば、古田武彦教授が昭和薬科大学の教授を終えた時、職制上の関係で、自分の思うようにならないので、それまでの古田教授と学問上での対立者である産能大学教授安本美典氏の側に寝返りして“和田家文書”を“現代人の書いた偽書”とする側に立ったものなのです」
まず、私が昭和薬科大学の職を辞した時点では、古田氏は同大学の教授を終えてはいない。また、私が同大学の職を辞するまでの経緯、和田家文書の研究が偽作説という結論にいたった経緯については、すでに著書の中で説明しており、そこには特に秘密などはない(註6)。
そもそも、藤本氏のいう「聞く所によれば」というのは、どのような経路でもたらされた伝聞なのであろうか。ここには、偽作説論者への中傷をもって反論に替えようとする『東日流外三郡誌』真作説論者の体質が如実に現れている。
また、藤本氏は和田家文書と和田喜八郎の筆跡一致について次のように主張する。
「『和田家文書』の現本は全て毛筆による墨書であり、故・和田喜八郎氏は腕の故障でペン書きであり、それも娘の○○に代筆させる場合が多かったのです。それを『外三郡誌』の現本を見もしないで、何と何を比較して筆跡鑑定をしたのでしょうか」(娘の名は原文では実名)
和田家文書について、藤本氏は「毛筆による墨書」とするが、毛筆にくわしい専門家の鑑定では、実際には筆ペンで書かれたものらしいという(註7)。それならば、ペン書きができる者が偽作したとして、何の支障もない。
また、和田氏は一時、筆跡見本に用いられた原稿は娘の代筆である、と主張していた事実はある。だが、和田氏がその証文として書き込んだ「これは娘の字、己の字ではない」という書き込みは、まさに筆跡見本の原稿と一致しており、かえって馬脚を現してしまった(註8)。
なお、藤本氏はこの書簡において、現存の和田家文書は4817冊あるとしながら「現実には何冊存在するのか、私が残存しているものを全部再書した後でなければ、はっきりわかりません」とする。また、斉藤光政記者(2002年からは編集委員)の下に和田家文書『北斗抄』から「ギルガメシュ王とカルデア人の事」「明日香の史談」(の写し)を送ったとして、斉藤記者に「現代人和田喜八郎に書ける事柄でしょうか」という判断を仰いでいる。
この「4817冊」「ギルガメシュ」云々というところは早稲田政経卒業同期会のコラムにも見られるところだ。
冊数を確かめるだけなら、再写しなくともできそうなものだが、「全部再書した後でなければ、はっきりわかりません」というのはいささか奇妙な話ではある。
実は「4817冊」というのは、藤本氏が自分で確かめたものではなく、和田家文書の記述(つまりは和田喜八郎のホラ話)を鵜呑みにしてしまったものなのである(この点後述)。
なお、ギルガメシュとは古代メソポタミアの楔形文字文書(粘土板)に記された王にして英雄である。その研究史を見ると、まず楔形文字の解読法が学会の承認を得たのが1857年、大英博物館研究員ジョージ・スミスが楔形文書の中に聖書のノアの洪水と似た洪水伝説の断片を発見したのが1872年、その洪水伝説を含む叙事詩の主人公の名が「ギルガメシュ」と確定したのが1890年。それまで「ギルガメシュ」の名は中東の地においてさえ、長らく忘れ去られていた。さらに『ギルガメシュ叙事詩』のまとまったテキスト刊行は1930年、英国でのアッシリア・バビロニア語版に始まる(註9)。
したがって、たとえ西欧からの知識を学んでいたとしても、寛政年間の人に「ギルガメシュ」の名が出てくる文章が書けたはずはない。それは現代人に書ける事柄でないどころか、現代人でなくては書けないものだったのである。早稲田政経の卒業同期会もあらかじめ和田家文書についての情報を得ていれば、この程度のことはすぐに確認できたであろう。
そもそも「寛政時代の古文書」にギルガメシュが出てくる、と聞いた時点で眉に唾をつけるべきだった、とは思うのだがそれはいまさら言っても詮無いことである。
なお、藤本光幸氏は2005年10月20日にこの世を去られた。その逝去の直前に藤本氏の名で発表された文章がこのような内容であったことは惜しまれる次第だ。
「浅見光彦氏」への論難
2005年、古田武彦氏はその支援組織の機関紙に「浅見光彦氏への“レター”」を発表、『東日流外三郡誌』真作説の主張をあらためて世に問うた(註10)。
表題の「浅見光彦氏」とは、推理作家・内田康夫氏の作品に登場するシリーズ探偵である。内田氏の小説『十三の冥府』には、明らかに『東日流外三郡誌』をモデルとする偽作の「古文書」が登場する(註11)。古田氏は、内田氏が偽作説に惑わされてそのような小説を書いたものと決め付け、論難を加えたのである。したがってこの「レター」なるものは実際には架空の「浅見光彦氏」ではなく、作者である内田氏に向けて書かれたものだ。
その文中、古田氏は次のように宣言する。
「わたしはハッキリと、“『東日流外三郡誌』は偽作ではない”と考えています。一瞬でも、“偽作である”と考えたことはありません」(註12)
考えてもみよう。対象への懐疑なくして実証的研究というものは果たしてなりたつものだろうか。もちろん、古田氏もその後で「その文献が“偽作”か“真作”か、この検証なしに文献研究をしたことなど、わたしには一回もありませんでした。・・・そのようなわたしにとって、この目でじっくりと“見すえる”限り、今問題の『東日流外三郡誌』は、まったくのシロなのです。決してクロではありません」と自らの発言をフォローしてはいる(註13)。だが、研究対象について「偽作である」と疑ったことがないものに、その対象が抱える問題点がみえるものであろうか。
さて、古田氏は「事実確認」主義を唱えつつ、自らが「『東日流外三郡誌』はまったくのシロ」とみなした根拠を次のように挙げていく。
T、『東日流外三郡誌』が天井裏から落下した、という時期について和田喜八郎の証言がまちまちである、という「事実」について―
古田氏はその「落下時期」の証言を次の三つに整理する。
@「昭和22年8月ころ」
A「昭和23年」
B「昭和32年の春」
そして古田氏はこの矛盾に対し次のように答えるのである。
「真相は簡単です。“誤植”です」「わたしも、当然この“落下問題”には強く関心を持ちました。それで何回も、喜八郎氏に確認を求めました。右の@が正しいのです。“昭和22年”です。他の二つ(AとB)は、“誤記、ないし誤植”なのです」(註14)
U、和田喜八郎の家にはそもそも天井がなかった、という「事実」について―
古田氏は、『東日流外三郡誌』は昭和7年には洞窟か土蔵に隠されており、その後、昭和22年までの間に和田家の天井が建て増しされ、そこにあらためて隠された、というストーリーを展開する。これは和田喜八郎の生前の証言にもなかったものであり、いわば古田氏が和田家文書の断片的記述から新たに創作したものだ。
さらに古田氏は和田喜八郎の家を訪ね、次の証言を得たという。
「わたしは、当住宅に、喜八郎氏の健在時、何回もおとずれました。そして問題の“落下場所”を、その部屋の中で、“天井”を指さしながら、たずねました。“ここだ。家族がこの下にいたら、えらいことだったよ”その喜八郎氏の言葉を、家族の方々も、聞いておられました(第一回)。第二回目は、喜八郎氏だけのとき、“再確認”しました」(註15)
V、文献書写者とされる和田末吉(喜八郎の曽祖父)が文盲だった、という証言がある「事実」について―
「明治時代の教科書に、真面目な、子供らしい字で“和田長作”の署名があるものをいくつも見てきました」「青年時代に、岩手県の実業学校の講習に出ていたさいの、ノートもありました。青年らしく、ビッチリと書かれた、律儀な、授業記録でした」(註16)
古田氏によると、和田末吉が文盲である、という証言は末吉の謙遜を真に受けたゆえの誤解にすぎないという。
W、和田喜八郎の筆跡について―
「わたしが彼の筆跡と理解しているものと“偽作説”の論者が“彼の筆跡”だと言っているものと、まったく“別”なのです」「(偽作説論者の筆跡見本は)喜八郎氏の“自筆”などではありません。可憐な代筆者“○○さんの筆跡”です」(原文では○○は喜八郎氏の息女の実名)
古田氏は和田喜八郎からの宅配便、郵便などを本人にみせ、「これはおれ」「これは娘」とその筆跡を仕分けしてもらったこともあるという。また、古田氏によると、世上「和田家文書」として出回っているものには、喜八郎がその息女に書写させたものが含まれており、それが偽作説論者を幻惑させることになった、という。
古田氏が偽作説への反証として持ち出した「事実確認」は以上の4点である。そして、これらはいずれも偽作説の立場からすでに否定された議論の蒸し返しにすぎない。
1、2については、そもそも昭和22年に和田家に物を隠せるような天井そのものがなかったことは親族の証言から明らかになっている。私も『東奥日報』の取材に同行して、その天井が物を隠せるような構造ではなかったことを確認した(註18)。
なお、和田喜八郎は終戦時の経歴について次のように証言している。
「昭和19年 旧中野学校を経て従軍(海軍転籍)昭和23年現在地で農業に従事」(註19)
「1944年中野学校を経て従軍(海軍転籍)。1948年以来五所川原で農業のかたわら石塔山大山祇神社を護る」(註20)
「旧制中学1年の時に中野学校(その学校は皆さんにあまり紹介したくない)に入り、卒業してから昭和23年まで兵役です。・・・ビルマのマンダレーというところで敗戦になり、それから戦犯としてモンテンルパに移されましたが、大した事はなかったということで帰ってきました」(註21)
これらの証言からすると、昭和22年の時点ではまだ喜八郎は自宅に帰ってはおらず、当然、古田氏が確かめたという「落下時期」に立ち会うことはなかったことになる。
一方、和田喜八郎は昭和20年3月にマンダレーから横須賀海軍鎮守府に配属され、同年6月に帰郷したという証言も残している(註22)。
これなら昭和22年の「落下」目撃と矛盾しないが、それならそれで、かくもコロコロ変わる証言を信じてよいのか、という問題が出てくる。
そもそも旧日本軍の制度からいって、昭和2年生まれの喜八郎が陸軍中野学校に入るということも、中野学校出身者が海軍に転籍するということもありえないし、戦史からしても、ビルマにいた兵士がフィリピンのモンテンルパに抑留されるとか、昭和20年3月にマンダレーにいた兵士が6月に帰郷できるというのもおかしな話だ(註23)。
実際には喜八郎は戦時中に出征することはなく、戦中・戦後を通じて家を離れたことはなかったという。もちろん中野学校云々というのもデタラメである(註24)。
喜八郎の経歴に関する証言はその一つを肯定しようとすると、必ずといってよいほど他の証言と矛盾をきたすようになっている。昭和22年の「落下」という証言もまたその例外ではない。これはこれは「誤記ないし誤植」という言い訳ででごまかせるような問題ではないのである。
Vについて、古田氏のいう教科書やノートは1998年に和田家の仏壇から出てきたものとされている(註25)。だが、この仏壇は1980年代に新しく購入したものであり、そこに古いものが隠されていようはずはない(註26)。喜八郎は書画・骨董の販売にも関わっており、古い教科書やノートの入手が不可能な立場ではなかった。偽作説から出された論点に対し、後から反証となるような「証拠」が次々と「発見」される、というのは喜八郎生前の『東日流外三郡誌』論争でくりかえされてきた現象である。この場合は、末吉が文盲だった、という説に対し、後から末吉の書き物が「発見」されたというわけだ。
Wについて、喜八郎の「これは娘の字」などという証言がまったくあてにならないものであることは先に述べた通りだ。T、U、Wに共通することだが、『東日流外三郡誌』について、古田氏のいう「事実確認」とは、実際には和田喜八郎に問い合わせることを意味していたようである。偽作容疑者の証言を鵜呑みにすることに何らの実証性もないことはいうまでもあるまい。
古田氏の論法は、偽作説の立場からの議論をすでに読んだ者なら呆れるしかないものであった。これが通用するのは、古田氏の信奉者で偽書説の書籍・論文を手にとろうともしない人々の間のみであろう。実際、内田氏と実業之日本社は『十三の冥府』を新書化するにあたって、古田氏の主張を一顧だにすることはなかったのである(27)。
「黄金狂時代」の到来?
古田氏はさらに秋田孝季・和田長三郎吉次は安東氏の埋蔵金を探していたと主張し、次のように述べる。
「(浅見さん=内田氏は)財宝目当ての“金さがし”など“欲の皮のつっぱった連中”のやること。自分には“敬遠の一手”だ。そうおっしゃるにちがいありません。その点、わたしと同じです。実は、これはそんな“油ぎった”“欲まみれ”の話ではありません。逆に、きわめて“さわやかな”話なのです」
「(和田家文書には)いまだ“未発掘”かと思える埋蔵金に関する書簡や地図もふくまれています。・・・この“埋蔵金”問題は、土地の人(青森県西部地方)の関心を“ひそかに”ひきつどけてきたようです。当然のことでしょう。この点、すぐれた研究者として次々各方面に研究業績をしめしておられるkさんが、すでに早く気づき、これを論文化して発表したい、とのこと。・・・この“埋蔵金”問題が『東日流外三郡誌』の真相を探る上で、不可欠のテーマであること、今まで述べたことでお判りの通りです。ですから、kさんも近く、その所論を発表されることと思います。現在未完の和田家文書、『北斗抄』や『北鑑』には、その件の直接資料、書簡・地図などが含まれています。これらはやはり、日本国民、否、世界の探究心ある人々の“共有財産”となるべきこと、今は火を見るより明らかです。一般の読者がこの本の“刊行”を支持し、日本の書肆が勇気をもってこれに踏み切れば、それは直ちに実現します」(註28)
k氏(原文では実名)は古田氏の支援組織の一つで事務局長を務めている。古田氏はk氏について、「次々に研究業績を示しておられる」と紹介するが、実際にはその「研究業績」発表の場は古田氏の支援組織の編纂・刊行物に限られる。
古田氏が言うのと別の意味で、埋蔵金問題は『東日流外三郡誌』の真相を探る上で不可欠のテーマである。というのは、和田喜八郎は生前、安東氏の秘宝(埋蔵金含む)発掘の話を人に持ちかけることを現金獲得の手段としていたからである。『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書はそのための重要な小道具でもあったのだ。
1972年頃、和田喜八郎は市浦村の関係者に安東の秘宝の隠し場所を描いた「古文書」を見つけたと触れ込み、発掘の話をもちかけた。村では出資者を募り、発掘費用を出したが何も出てこない。そこで喜八郎は出資への対価として「古文書」を差し出した。市浦村ではそれに基づいて村史資料編を刊行することにした。これが「東日流外三郡誌」が当初、市浦村の刊行物として世に出たいきさつである(註29)。
1999年1月26日、テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』に、「五所川原市の神主さん」(和田喜八郎のこと)に「古文書」を見せられ、そこに記された宝物の発掘費用ということで130万円を出資したという人物が登場した。しかし実際には発掘は行われることなく、「神主さん」は代価として遮光器土偶を渡した。同番組では、その土偶が鑑定されたわけだが、結果は「お土産用に作られた模造品」、ついた値段は1万円だった。それも、その人物が騙されたことへの同情込みの金額である(註30)。
つまり、「和田家文書」に出てくる埋蔵金話は、こうした詐欺まがいの行為のための仕込みであって、決して「さわやかな話」などではない。そして、古田氏はその和田喜八郎の負の遺産を蘇らせようとしているわけだ。
しかも、ここでは、古田氏自身がその埋蔵金話に直接手を出すわけではなく、k氏に委ねることが予告されている。古来、埋蔵金話に惑わされて人生を誤った人は数多い。埋蔵金話を宣伝することはそのような被害者を作り出すリスクを負うことでもある。そこで古田氏は、この埋蔵金話がスキャンダルになった場合、責任をk氏に押し付けることができるようあらかじめ手を打っているわけだ。
なお、和田喜八郎のことをはっきり「五流の詐欺師」と呼んだ人物がいる。誰あろう、藤本光幸氏の妹であり、ご自身、「和田家文書」の真作説論者である竹田侑子氏だ。
「父幸一は、和田喜八郎を“万十千三つ”と評していた。すぐにバレる嘘をその場の思いつきでペラペラいう。生前父は“喜八郎は嘘つきだが石塔山は本物だよ”ともいっていた。兄光幸が万十千三つとまるで節操のない喜八郎を知りながら『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書にのめり込んでいったのは、和田喜八郎の書き得るものではないことを知っていたからである。“総四千八百十七冊”と記される和田家文書を書き得るほど、和田喜八郎は天才でも超人でもない。ましてや五流の詐欺師に書き得るものではない。・・・和田喜八郎は打てばいくらでも埃の出る不実の人である」(註31)
これは和田喜八郎の没後すぐに書かれた文章である。実際には「和田家文書」は質的にいっても、量的にいっても「天才」や「超人」でなければ書き得ないものではない。その内容は現代の書籍や雑誌、新聞、テレビなどで得た知識に「その場の思いつき」を交えての覚書の羅列である。それがあたかも貴重な資料であるかのように言われたのは、当初、読む側にこれは江戸時代の「古文書」だ、という先入観があったからに他ならない(註32)。
「石塔山は本物」という話についていえば、和田喜八郎が石塔山大山祇神社を建立する前、この山に石の塔といわれる場所が「十和田様」という神が祭られていたという。しかし喜八郎は自らの神社を建てるために石の塔を破壊してしまい、今ではまったく原形を留めていない(註33)。和田喜八郎は「本物」だった石塔山を壊し、その瓦礫の上に自らの妄想の聖地を建設したのである。
なお、ここで竹田氏が「“総四千八百十七冊”と記される和田家文書」と述べていることも興味深い。つまり、藤本氏が早稲田政経卒業同期会でのスピーチや、斉藤記者への書簡で吹聴していた「4817冊」という数字は「和田家文書」そのものに書かれたものだったのである。となると、これは和田喜八郎による虚妄の数字とみなすべきだろう。
竹田氏によると、藤本氏が和田喜八郎の子息(故人)から、同家に現存していた「和田家文書」を「借り受けた」のは2001年秋のことだったという(註34)。
藤本氏はそれから2004年4月まで、その冊数を現物によって確かめようとはしなかったことになる。
それはさておき、竹田氏の証言は結局、和田喜八郎をよく知る人は、たとえ真作説支持者であっても、彼を「五流の詐欺師」としか思っていなかったことを示している。
古田氏は、その「五流の詐欺師」の言い訳を鵜呑みにすることを「事実確認」主義と称していたわけである。
蓑田胸喜の再来
ところで『東日流外三郡誌』問題を中心として古田武彦氏の論法や言動を見直した時、私は改めてある歴史上の人物を思い起こさずにはいられなくなった。
それは蓑田胸喜(1894〜1946)である。蓑田は戦前・戦中に活躍した思想家(?)だ。彼は硬直した国家主義的イデオロギーをふりかざし、当時の大学教授たちに詭弁・強弁さらには人身攻撃をも交えた論難を繰り返した。彼は自分の容認し難い学説を説く者に辞職を迫り、しばしばそれに成功した。蓑田は官学アカデミズムに対する大衆のルサンチマンをたくみに組織化し、社会運動の原動力としたのである。
蓑田の暗躍により、いったんは社会的生命を奪われた碩学には京大教授・瀧川幸辰、東大名誉教授・美濃部達吉、早稲田大教授・津田左右吉らがいる。彼が自由な学問研究を阻害したことで、学界のみならず日本社会全体が大きな被害を蒙った。
だが、終戦とともに蓑田はその威光を失い、彼の犠牲となった学者たちは社会的に復権した。蓑田が凋落と孤独の中で、その最期を遂げた後、彼は「学匪」とまで呼ばれ、そのすべてが忌み嫌われることになる(35)。
古田氏が論争に際し、詭弁・強弁を好んで用いることはすでに拙著で論じたところである(36)。
また、蓑田と同様、古田氏も『東日流外三郡誌』論争の中で安本美典氏に対し、執筆活動停止と大学教授辞職を迫ったことがある(37)。
さらに古田氏は硬直したイデオロギーを振りかざしつつ古代史学界を攻撃し、一般の古代史ファンに潜在していたアカデミズムへの反発を煽ることで自らの支援組織を作り上げた。イデオロギー的には蓑田と古田氏は一見、正反対の方向を目指しているようではある。しかし、それは一方が昭和初期から戦時中の時流をとりこみ、一方が戦後の風潮におもねった結果であって、結局はそれぞれの時代の申し子にふさわしいイデオロギーを共に選んでいたにすぎないのである(あるいはそのイデオロギーゆえに共に時代の申し子に選ばれたというべきか)。古田武彦氏こそ戦後社会における蓑田胸喜の再来になりえたかも知れない人物である。古田氏がついに蓑田ほどの影響力を学問の世界で持ち得なかったことは僥倖とすべきであろう。
さて、私が蓑田という人物に注目したきっかけは、古田氏がその文章において、偽書説論者を蓑田にたとえたからであった。
「反和田家文書の過激派とも言うべき一派は、『季刊邪馬台国』(五十号等)によって反撃を強めた。それも和田喜八郎氏やわたしに対する個人攻撃と人格中傷である。かつて戦前、津田左右吉に対して蓑田胸喜等『原理日本』一派が展開した卑劣な手口と同じく、全く非学問的な攻撃が核心となっている」(註38)
私はこの古田氏の主張によって蓑田という人物のことが印象に残っていた。この文章が発表された時点で論争相手に対し「個人攻撃と人格中傷」「全く非学問的な攻撃」を繰り返していたのはむしろ古田氏の方であった。そして最近、蓑田という人物の事績について調べるにつれ、古田氏との類似に改めて驚かされる羽目になった。古田氏は鏡に映った自らの姿を罵倒していたのであろうか。
この件に関して言えば、私に蓑田胸喜という人物に対して注目するきっかけを与え、さらに比較すべき対象をも提供して下さった古田氏の「学恩」に感謝する次第である。
余談だが、『新古代学』第8号には「浅見光彦氏への“レター”」ばかりではなく、古田氏の講演録「新しい探求の出発」が掲載されている。その中で古田氏は新約聖書外典『トマス福音書』を根拠に初期キリスト教の教義が大乗仏典『法華経』に影響を与えた可能性について論じている。ところがこれは私がかつて著書の中で展開したテーマと酷似しているのだ(註39)。その拙著が出たのは、私が昭和薬科大学に在職中のことであり、上司だった古田氏はもちろん目を通している。「新しい探求の出発」には拙著への言及はないが、かつて他者を盗作者呼ばわりするのに容赦なかった古田氏がこのことにどのような見解を持っておられるのかうかがってみたいところではある。
さて、『新古代学』は第8号をもっていったん終了するという。2006年からは古田武彦氏の直接編集による新雑誌(仮題「古田学」)がミネルヴァ書房より、より発行の運びとなったそうである(註40)。k氏の埋蔵金話もその新雑誌で発表される公算が大きい。今後の展開に注目したい。
浄土宗の対応
さて、本文の最後につけくわえておきたいことがある。1975年に市浦村から『東日流外三郡誌』が刊行される以前にも、和田喜八郎は「古文書」偽作の前歴を重ねていたのだが、その頃、彼に利用された組織の一つに浄土宗がある。
浄土宗の伝承では、東北地方に浄土宗を広めたのは、法然上人の弟子の金光承認である、とされていたが、そのくわしい事績は謎に包まれていた。そこで和田喜八郎は金光上人の伝記編纂を思い立った浄土宗僧侶たちに「古文書」を提供していたのである。
和田喜八郎提供による「古文書」で書かれた伝記としては次のものがあげられる。
佐藤堅瑞『金光上人の研究』(浄円寺、1960)
開米智鎧『金光上人』(金光上人刊行委員会、1964)
『浄土宗大辞典』第1巻「金光上人の研究」「金光房」の項。
現在の浄土宗では、これらの伝記にどのような評価を下しているであろうか。1999年11月刊の『金光上人関係伝承資料集』(41)は特に「和田文書」の章を設けている。その編纂スタッフが生前の和田喜八郎、藤本光幸氏らと接触し、「古文書」と称されるものを実見、さらに写真を撮影した上で判断を下していることは特筆すべきであろう。
また、この書籍は浄土宗教学院による金光上人関係資料収集の成果報告であり、そこに示された「和田文書」への評価は、現在の浄土宗の公式見解とみなしてよい。
さて、そこには「和田文書」に対する否定的見解と、それを信じた先学への手厳しい批判の文面がならんでいる。
「撮影分“和田文書”の記述内容は、全般に拙劣な分であるうえに内容上の誤謬も多く、読むことに苦痛を伴うものである」
「平成6年に、安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂)が刊行された。同書には『東日流外三郡誌』をはじめとする一連の既公開“和田文書”のさまざまな視点からの問題点が列挙されており、その指摘内容は撮影分159資料についてもほぼそのまま当てはまるものであった」
「佐藤師の用いた“かくれ和田文書”は全般に、撮影分や『東日流外三郡誌』とほぼ同等の問題点を持っている。例えば元年の改元日の問題や、語法の誤りなどは頻出するところである。(中略)問題は、これをも含めた“和田文書”全般に対する佐藤師の立場である。(中略)それらのすべてを真実として取り扱っているため、著者個人において混乱が生じ、結局のところ、自己の金光上人讃仰の立場の中に研究成果が迷い込んでしまっているのが、佐藤師の著書の実態と言える。(中略)例えば、遠野善明寺に関する考察が105頁にある。同山の開山は善明であり、八戸から後世遠野に移ったということは、他の資料でいくらでも証明できる。ところが“和田文書”に盲従した結果、遠野善明寺を金光の遺跡と認定するが如き陥穽に入り込んでいる」
「開米師の著書は、佐藤師の著書をさらに“和田文書”で補足したという性格がある。それほど都合よく新しい文書が発見されるはずもなかろうが、その点には何ら疑問をさしはさまず“和田文書”から金光上人の姿を書き上げた。開米師のみが用いた“かくれ和田文書”についても、全体としては撮影分や『東日流外三郡誌』金光上人資料と、ほぼ同じ基盤を持つ内容を伝えるものである。したがって問題点もほぼ同じである。(中略)これだけの“和田文書”をまとめられた努力は並大抵ではあるまい。しかし、小説ならともかく、伝記においてはこれは問題である。(中略)ここに評価の作業を続けたところ、玉石混交というよりは、瓦礫の山であるという報告を出さざるを得ないものがある」
「(『浄土宗大辞典』「金光上人の研究」の項について)最後の一文、“新発見の資料は、史料の少ない金光上人伝の研究に貢献している”は是認できない。この“新発見の資料”とは“和田文書”に他ならず、貢献どころか混乱を生じさせたものである」
「(『浄土宗大辞典』「金光房」の項は)不確定要素をすべて断定的に記述した解説文であり、ほぼ全面的な書き直しが必要である。“金光像”として掲載された絵は“和田文書”のものであり、掲載すべきものではない。(中略)現在宗内でもっとも信頼度が高いと目されている『浄土宗大辞典』においてすら、こと金光に関してはかくもあいまいな状態である。このあいまいさは“和田文書”を取り扱う過程において発生した度合いがかなり大きいと見なければなるまい」
なお、以上の引用文に出てくる「かくれ和田文書」とは、佐藤や開米の著書に言及、あるいは引用されながら、他の場で活字として公開されることなく、また編纂スタッフが現物を見つけ出すこともできなかったもののことである。
私は編纂スタッフの一員だった方に、口頭で「かくれ和田文書」の実態について、意見をうかがったことがある。その方は仮説だとことわった上で、次のように述べられた。
「和田喜八郎が、その文書を必要とする相手に売りつける目的で書いたが、まとまった形にならなかった、もしくは形にして出したもののすぐに相手の手元から引き上げざるをなかったもの」
つまりは現在、活字化され、あるいは「写本」という体裁をとるなどして現存するいわゆる「和田家文書」より、完成度が低いものだっただろう、ということである。
同書の刊行により、浄土宗は、「和田家文書」に対する過去の信奉ぶりへの反省と、その影響からの脱却という目標を提示したと見てよいだろう。
なお、この書籍は、「和田家文書」の成立過程についても興味深い観点を提示しているが、この問題についてはまた機を改めて論じたい。
注
(1)三上重昭『「東日流外三郡誌」の真実』梓書院、2002。
ちなみに1994〜2000年に出た書籍で『東日流外三郡誌』偽書説をテーマとするものは以下の通り。
安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』廣済堂出版、1994
安本美典『虚妄の東北王朝』毎日新聞社、1994
原田実『幻想の津軽王国』批評社、1995
千坂げんぽう編『だまされるな東北人』本の森、1998
原田実『幻想の荒覇吐秘史』批評社、1999
安本美典他『日本史が危ない!』全貌社、1999
三上強二監修『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』批評社、2000
(2)「早稲田大学政治経済学部昭和28年卒業同期会ホームページ」
http://www.ne.jp/asahi/yamamoto/naozo/wseikei28/index.htm
「会員のコラム」
http://www.ne.jp/asahi/yamamoto/naozo/wseikei28/column.htm
(3)山上智「ナマハゲの正体は邪馬台国の王長髄彦だった!!」『ムー』2004年2月号。
内田一成「水戸光圀が目指した古代東北王国の復活」『ムー』2004年6月号、他。
なお、『ムー』は1985年5月号に後のオウム真理教教祖・麻原彰晃の論文
「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」を掲載。
その中で麻原はハルマゲドン(世界終末戦争)の到来と
超古代文明の復活、天皇家に代わる新しい王の出現を説いた。
その後、『ムー』はオウム真理教の広告をぞくぞくと掲載、教団拡大に貢献する。
1988年8月号『ムー』は「謎の荒覇吐黄金王国」と題して、
総力特集に『東日流外三郡誌』を取り上げ、
その反国家・反天皇的内容と、超古代文明に関する記述を賞賛
(この号ではオウム真理教はページ全面広告を2箇所掲載)。
そして、その時期からオウム真理教はその反社会的性質を強めていき、
90年代前半、地下鉄サリン事件など一連のテロ行為を繰り返すことになるのである。
(4)「和田家文書の真偽論争」『多元』69号、2005年9月
(5)安本美典「書評・藤原明著『日本の偽書』」『東奥日報』2004年7月12日付
(『季刊邪馬台国』86号、2005年1月、転載)。
(6)原田実『幻想の津軽王国』前掲。
(7)藤村明雄「つくられた白蛇の舞い」編集部注『季刊邪馬台国』53号、1994年3月
(8)原田実「書評『新・古代学』第1集」『季刊・古代史の海』第1号、
1995年9月(前掲『幻想の荒覇吐秘史』に転載)。
(9)矢島文夫『失われた古代文字の謎』大和書房、1985、他。
(10)古田武彦「浅見光彦氏への“レター”」『新・古代学』第8集、2005年3月。
(11)内田康夫『十三の冥府』実業之日本社、2004。
同・新書版、実業之日本社、2005。
いずれも巻末の「参考文献」には『日本史が危ない!』『幻想の荒覇吐秘史』(前掲)
が挙げられている。
ちなみに原田実による同書の書評が『東奥日報』2004年3月11日付夕刊に掲載された。
(12)『新・古代学』第8集・43ページ
(13)『新・古代学』第8集・45ページ
(14)『新・古代学』第8集・50ページ
(15)『新・古代学』第8集・54ページ
(16)『新・古代学』第8集・55ページ
(17)『新・古代学』第8集・56〜59ページ
(18)原田実「事実に基づき物事判断を・論争呼んだ古文書『東日流外三郡誌』“発見”の家
訪ねて」『東奥日報』2003年2月28日付夕刊。
齋藤隆一「『東日流外三郡誌』の原点―和田喜八郎宅の検証―」
『季刊邪馬台国』第79号、2003年4月
原田実「『東日流外三郡誌』事件・偽作の“現場”を訪ねる」
『季刊邪馬台国』第80号、2003年6月
と学会『と学会年鑑BLUE』太田出版、2003。
(19)和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』東日流中山古代中世遺跡振興会、1988。
(20)和田喜八郎『知られざる東日流日下王国』八幡書店、1989。
なお、「石塔山大山祇神社」は喜八郎が1980年に
自ら偽作した「古文書」に基づいて建立したいわば新興宗教である。
したがって、1948年の時点ではまだ存在していない。
(21)衣川村・衣川村教育委員会編『安倍氏シンポジウム報告書』1990。
(22)和田喜八郎「真実の東北日本史・東日流諸郡誌類による私考」
『北日本防衛ジャーナル』1991年4月号。
(23)高倉盛雄「和田氏と中野学校の関係―ありえない経歴を誇称―」『季刊邪馬台国』第52号、
1993年9月(前掲『東日流外三郡誌「偽書」の証明』に転載)。
安本美典「古田武彦氏の弁明のごまかし」『季刊邪馬台国』第52号、前掲。
(24)『日本史が危ない!』前掲。
(25)古田武彦『失われた日本』原書房、1998。
(26)齋藤隆一「『東日流外三郡誌』の原点―和田喜八郎宅の検証―」前掲。
「『東日流外三郡誌』事件・偽作の“現場”を訪ねる」前掲。
(27)内田氏らの手元にこの古田氏の論文が届けられたことはすでに確認されている。
(28)『新・古代学』第8集、59〜62ページ。
(29)安本美典『虚妄の東北王朝』前掲。
三上強二「和田喜八郎という人物」前掲『だまされるな東北人』所収。
三上強二・長峰茲「和田喜八郎氏の思い出」前掲『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』所収。
なお、三上氏は市浦村から相談を受けて、和田喜八郎の提供した「古文書」や
安東の秘宝の見本と称するものを鑑定、すべてニセモノであると見破った。
しかし、そのころにはすでに村史編纂事業が進められており、
村としても引っ込みがつかなくなっていた、という。
私と『東奥日報』斉藤光政記者は2005年8月26日、
改めて三上強二氏にインタビューを行い、
安東の秘宝騒動と市浦村史資料編刊行の関連について確認した。
(30)『日本史が危ない!』前掲。
(31)竹田侑子「和田家文書は和田喜八郎の書いた偽書ではない―九州安倍宗任伝説をめぐって―」
『北奥文化』第20号、1999年11月。
(32)原田実『幻想の荒覇吐秘史』前掲。
原田実「『東日流外三郡誌』原本実在説という幻影」
『季刊邪馬台国』第86号、2005年1月。
(33)三上強二・長峰茲「和田喜八郎氏の思い出」前掲。
(34)竹田侑子「和田家文書報告(1)」『北奥文化』第23号、2002年11月。
この報告で竹田氏は、新たにみつかったという「和田家文書」の写真を掲げているが、
いずれも和田喜八郎の筆跡と一致している。
ちなみに和田家文書の冊(巻)数について、1987年に刊行された『総輯 東日流六郡誌 全』(津軽書房)の段階では、「東日流外三郡誌・三百六巻、東日流内三郡誌・二百二十巻、東日流六郡誌大要・八巻、奥州五十二郡誌・二十巻」の計608巻とされている。ただし、1990年に刊行された『東日流六郡誌大要』(八幡書店)では「東日流六郡誌大要」が三十巻以上あるとされており、87年時点での設定が放棄されている。おそらくは偽作が無計画に進行したため、設定を維持できなかったものと思われる。
なお、『東日流外三郡誌』については刊本として市浦村版、北方新社版、八幡書店版があるが、和田喜八郎が市浦村に提供したテキストはカーボンコピーでしかも一部のみ、北方新社版の底本は藤本光幸が原稿用紙に書き写したもの、八幡書店版の底本は先行する活字版と一部カーボンコピーでいずれも和田喜八郎所蔵の原本(真作説論者のいう「明治写本」)の体裁を反映したものではない。しかも、和田喜八郎は『東日流外三郡誌』のいわゆる「明治写本」は紛失した、と後に主張している。そのため、いわゆる「明治写本」が、本来の体裁でいったい冊(巻)だったかの確認がなされることはなかった。つまり「東日流外三郡誌・三百六巻」というのは眉唾である。
さらに、藤本光幸は1992年に新たな和田家文書が推定1800冊(巻)も「発見」されたと報告している(藤本『和田家資料1』北方新社、1992、藤本「『東日流外三郡誌』と初代日乃本国の謎」『歴史Eye』1992年11月号)。
1800冊というと一見膨大なようである。しかし、和田家文書の1冊(巻)ごとの文章量は400字詰原稿用紙で10枚強程度、内容の繰り返しも多く、推敲も行われていない。流行作家の仕事振りを思えば、一人で十分に作ることができる量である。
ここから真の作者たる和田が、その偽作の進行に合わせて、和田家文書の名目上の冊(巻)数を修正していき、最終的には「4817冊」ある(はずだ)、という主張に行き着いたことがうかがえる。
(35)皮肉にも「学匪」とは、蓑田自身がかつて美濃部達吉に対して投げかけた語であった。
ちなみに推理作家の高木彬光は古田氏から盗作者呼ばわりされたあげく、
古田氏側の謀略によって矛を納めざるをえなくなったことがあるが、
後にその顛末を書いた書籍で、古田氏を「学匪」と呼んでいる
(高木『邪馬壹国の陰謀』日本文華社、1978)。
また、高木は小説『七福神殺人事件』(角川書店、新書版1987、文庫版1989)でも、
古田氏をモデルとした人物について、他の登場人物の口を借りて「学匪」と呼んだ。
(36)原田実『幻想の多元的古代』批評社、2000。
(37)古田武彦「職を賭して再反論する」『サンデー毎日』1993年7月4日号)
(38)古田武彦「学問の大道」『古田史学会報』5号、1995年2月。
『新・古代学』第1集、1995年7月、転載。
(39)原田実『黄金伝説と仏陀伝』人文書院、1992。
(40)「伝言板」『多元』69号。
(41)阿川文正監修、遠藤聡明・金子寛哉・片山泰徳編著『金光上人関係伝記資料集』
『金光上人関係伝記資料集』刊行会、1999。
同刊行会は浄土宗宗務庁の教学局内に置かれている。
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「十三湊遺跡フォーラム」雑考
2005年7月14日、青森県五所川原市の中世港湾都市「十三湊遺跡」が国史跡の指定を受けた。同年11月20日、その指定を受けて、市内のプラザマリュウ五所川原において、記念フォーラムが開催された。主催は十三湊フォーラム実行委員会・五所川原市教育委員会。私もその催しに参加する機会を得たので、ここでその感想を記録しておきたい。
開会アナウンスの後、フォーラム実行委員長・弘前大学名誉教授の村越潔氏のあいさつに引き続き、坂井秀弥氏の特別講演(文化庁記念物課主任調査官)が始まる。
坂井氏によると、現在、国史跡指定は全国1000箇所以上を数えるが、その偏在はいちじるしく、京都・奈良両県がそれぞれ100箇所以上あるのに対して青森はわずか10箇所程度、その内2箇所が五所川原市にあるという。この不均衡を今後、是正していくためにも、十三湊遺跡がさらに全国的な注目を集めるべきである。それには行政・地域・学会が一体となっての保存・活用策を求める必要がある、ということが強調された。
続いては宮城教育大学教授・遠藤巌氏の基調講演。従来、14世紀の安藤氏が「日之本将軍」を自称したことを示す資料として珍重されてきた『羽賀寺縁起』をその実際の成立年代である16世紀の国際関係の中で見直し、その時代の日本では北海道からカムチャッカ・チュクチに連なるアイヌ文化圏をも「日本」に含めて考える地理観が定着していたのではないか、というスケールの大きな内容であった。
さて、話はこのフォーラムから離れるが、1993年、小口雅史氏が、「安東氏研究の権威と目される高名な研究者」から、『東日流外三郡誌』の原本を見たと聞いた、と証言したことがある。この証言は、『東日流外三郡誌』に未知の原本が存在したはずだ、と主張する論者によって利用され続けてきた。複数の研究者が小口氏にその「高名な研究者」の名をうかがったところ、遠藤巌氏だとの返答を得ている(原田実「『東日流外三郡誌』原本実在説という幻影」『季刊邪馬台国』86号)。
フォーラム当日、遠藤氏に自己紹介の機会を得た際、私はその件についての確認を求めたが、「突然、三郡誌がらみで名前を出された上に質問されるのは心外だ」としてコメントを拒否された。
しかし、実は遠藤氏にとってこの質問は突然のものではない。遠藤氏に対しては複数の研究者が、この件について書面で事実確認を求めており、遠藤氏はその全てを黙殺してきた。むしろ、遠藤氏は自ら小口証言の真偽について弁明する機会を逸し続けておられるのである。この日のコメント拒否で遠藤氏がさらにその機会を失われたことは惜しまれる。
また、遠藤氏は国立大学法人宮城教育大学という公的研究機関のれっきとした一員である。その遠藤氏が社会問題化した課題に対して、質問への回答を避け続けるということは公的に求められる説明責任への放棄ともいえよう。
さて、午後からは榊原滋高(五所川原市教育委員会主査)、鈴木和子(青森県教育庁文化財保護課主査)、三浦圭介(青森県埋蔵文化財調査センター次長)各氏による遺跡調査の現状報告。最近の調査進展で十三湊遺跡の復元予想は今後、大幅に書き換えられる可能性があるという。
また、十三湊遺跡の最盛期(14世紀中葉〜15世紀前半)と同時代で、やはり十三湖のほとりにある中世城郭遺跡「福島城跡」や、十三湊遺跡に先行する古代遺跡(9世紀末〜10世紀後半)でやはり国史跡に指定された五所川原須恵器窯跡群などと、十三湊遺跡を関連づけ、その意義を再考する必要があるとされた。
また、三浦氏からは、7世紀の大和朝廷派遣軍が蝦夷を饗応したと『日本書紀』にある「有馬浜」が十三湖の中ノ島である、との新説が提示された。
『東日流外三郡誌』では、十三湊は1340年頃の「興国の大津波」で壊滅し、安東氏(安藤氏)も衰亡に向ったと伝える。ところが現在の発掘成果は、その内容を否定している。十三湊遺跡からは大津波の痕跡がなんら見つからないだけではなく、その最盛期は14世紀中葉から15世紀前半であったことを明らかにした。1340年頃に十三湊が壊滅したなら、このような結果にはならないだろう。榊原・鈴木・三浦各氏の報告は、結果として『東日流外三郡誌』の虚妄をさらに明らかにするものとなった。
その後は中央大学教授・前川要氏と奈良大学助教授・千田嘉博氏に講演者2名・報告者3名の方々をまじえてのパネルデイスカッション、遺跡の保存と活用について、世界遺跡申請をも視野に入れた意見交換が行われた。
また、その議場では、青森県内の金石文の権威である佐藤仁氏(青森県文化財保護審議委員)から、十三湖周辺の石造文化財についての報告も行われた。
佐藤仁氏はかつて青森県中里町の教育委員会が作成した史跡・中里城の報告書において次のように述べている。
「中里城について多くの記事を載せている『東日流外三郡誌』は、記事全体からみて誤りや作為と考えられる部分があるため、史料として用いるには不安があり、この記述をもとに研究を進めるのは無理だと思います。歴史学は確実な史料をもとに、論証を積み重ねていく学問です。史料の内容、記述の性質など厳しく吟味し(史料批判といいます)、確実な文献をもとに科学的な研究を続けて行かねばならないのです。信頼できる史料や記録のない中里城の場合、城を取りまく地域や周辺の城館の歴史、金石造文化財などから研究するか、考古学や歴史地理学などの成果を総合して考察するほかありません」(『中里城跡概報』 中里町教育委員会、1992
http://www.n-museum.jp/library/nakajo-gaiho/nakajo-gaiho.htm)
「中里城について多くの文章を載せている『東日流外三郡誌』は、記事全体に誤りや作為が見られ、この記述をもとに研究を進めるのは困難である。信頼できる史料や記録のない中里城の場合城を取り巻く地域や周辺の城館の歴史、金石造文化財などから研究するか、考古学や歴史地理学などの成果を総合して考察するほか方法はない」(『中里城跡環境整備基本構想 』中里町・中里町教育委員会、1993
http://www.n-museum.jp/library/nakajo-kousou/nakajo-kousou.htm)
私は当日、佐藤氏に自己紹介する機会を得て、中里城研究に『東日流外三郡誌』を用いえないとした根拠をうかがった。いただいたご返答は「一目見れば怪しいとわかります。内容が他の史料と合わない上、体裁も史料の呈を成していないのですから」ということであった。
ディスカッション終了とともに閉会のあいさつ。委員長の村越氏の後、高松隆三氏(五所川原市教育委員会、元市浦村村長)がマイクをとられた。
高松氏は「五所川原市には遺跡が多いが、古くから伝わっている文献がない」とした上で研究の進展のためには東北大学の東北アジア研究センターのような施設を五所川原市にも設置することが必要だ、と指摘された。
私はこの発言に感慨を覚えざるをえなかった。2000年に開催された十三湊遺跡発掘10周年記念フォーラムの開会挨拶で、当時、市浦村村長だった高松氏は次のように発言している。
「10年前までは、十三湊は幻だ、外三郡誌も偽書だとたたかれ、十三湊の歴史を全面否定する風潮もありましたが、1993年に、国立歴史民俗博物館と富山大学が中心になって十三湊の町並みを発見しました」(青森県市浦村編『中世十三湊の世界』新人物往来社、2004)
つまり、高松氏は2000年の時点でも『東日流外三郡誌』を擁護しようとしていたのである。なお、実際には1993年の十三湊発掘調査の成果は『東日流外三郡誌』の正しさを証明するものではなく、むしろそれを否定するものだった(国立歴史民俗博物館編『中世都市十三湊と安藤氏』新人物往来社、1994、小島道裕「中世日本の北の玄関−ベール脱ぐ十三湊遺跡」平成八年四月九日付読売新聞)。
その高松氏が五所川原市に古くから伝わる文献がない(つまり『東日流外三郡誌』も古くから伝わっている文献ではない)というのを認めざるを得なくなった、ということ自体、現在の地元での『東日流外三郡誌』への評価を示すものといえるだろう。
ところで、現在、青森県では『青森県史』の編纂・刊行を進めている。このフォーラムに先立つ2005年8月27日、私はやはり青森を訪れ、『青森県史』資料編編集で中世部会の中心になられた斉藤利夫(弘前大学教授)からお話をうかがう機会を得た。
その際、斉藤氏から「『青森県史』中世編では『東日流外三郡誌』になぜ触れなかったか」という問いについて、現代人の偽作であることが明らかな以上、中世編で扱うには、記録編纂物として見てもあまりに新しく、また、内容も荒唐無稽であるために触れるに値しなかった、との返答を得ている。
しかし、『東日流外三郡誌』は一時は日本史を書き換える文献としてマスコミにも大きく取り上げられ、全国的な影響力を持った経緯がある以上、『青森県史』でまったく黙殺するのは不当というものであろう。それが明らかな偽書であるとしても、否、むしろ偽書であればこそ、青森県は地元としての姿勢をこの機会に全国に示すことが望ましい。『東日流外三郡誌』の内容が古代(超古代?)から近世・近代までの多岐にわたっている以上、中世編以外でも取り上げられる分野はあるはずだ(極端な話、現代の文化財偽作事件として近現代編や文化財編で取り上げることも可能だろう)。
フォーラムから2日を経た11月22日、私は青森県庁の文化観光部文化振興課を訪ねた。『東日流外三郡誌』の扱いについて、県史編纂グループ(文化振興課所属)に何らかの方針があるか、質問するためである。
担当者の方の返答では、県はそれに関する方針は立てていない、方針そのものがない以上、県として返答することはできない、ということであった。
また、担当の方は個人的な意見とことわった上で、次のように話して下さった。
「『東日流外三郡誌』の検討は70年代の間に終わったものと思っていた。学界では80年代以降に『東日流外三郡誌』を史料として取り上げた人はいないだろう。マスコミでの真贋論争はとうに終わった問題をむしかえしただけにすぎない、だから県としても特に対策を立てる必要はないだろう」(なお、当日は担当者本人から名を出さないようにとの要請があったので、匿名にさせていただく)。
しかし、実際には本格的な『東日流外三郡誌』ブームは80年代以降であり、それ以降、大学教授の肩書きを持つ人物がこれを好意的に取り上げた例も多数ある(その典型は昭和薬科大学教授だった古田武彦氏だろう)。
また、『東日流外三郡誌』が市浦村の村史資料として刊行される以前から、和田喜八郎が作成した「古文書」は青森県内の村史で史料として用いられた例がある。そして、刊行されて以降は、さらに多くの市町村史で史料として用いられるようになった。青森県が早くからこれを偽書として認識していたのなら、この市町村史レベルでの『三郡誌』汚染に手をこまねいていたという責任があるのではないか。
この担当者の方の「個人的意見」は現実から大きく乖離しているばかりではなく、県行政の怠慢ぶりをかえって露呈させたものといえよう。
さて、社会に対して大きな影響力を有するものは、それに応じた責任を有するものである。その中でも情報開示への責任は、現代社会においてますますその重要性を増しつつある。先に遠藤氏について、その問題を指摘したが、青森県という自治体の一機関としての県史編纂グループとなれば、その責任は一個人よりも重いといわなければならない。
さて、1970年代の古代史ブームにおいて、一大画期をなしたのは1972年、奈良県明日香村・高松塚古墳での壁画発見であった。ところが最近、その壁画が湿気やカビのため、消滅の危機に瀕しているという。朝日新聞2005年11月20日付朝刊社説では、次のような指摘がなされている。
「高松塚古墳の壁画保存の失敗は、文化庁が説明責任と情報公開を果たさなかったことが大きな原因であった」(「日本書紀を掘り起こせ」)
『東日流外三郡誌』汚染に対し、県がなんらの対応策も持っていないということは、市町村レベルでの歴史破壊という失敗がくりかえされる危険を放置することでしかない。今からでも、青森県にはその責任について一考を願う次第である。