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日吉町半原は、天文年間、土岐氏滅亡によって鶴ヶ城の家臣達の一部が土着した所といわれています。ここは中山道(上街道)と下街道の間にあり中街道も通っていて江戸時代中期の宝永・正徳(1704〜1715)の頃、淡路の人形使いがこの地を訪れ、土地の大百姓三輪源兵衛方に逗留して、村民に伝授したのが始まりと伝えられています。 残っている人形・衣装は当時より整えられ、以来、産土日吉神社の例祭に奉納上演を続けられてきました。 特に天保年間からは独特の三番叟を創作して、現在まで継承されています。 こうしたことは当時半原庶民の間において既成のものを伝承するにとどまらず、さらに創作まで至らせた高度の技術性が培われていたことを証明しています。 |
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県指定無形文化財「半原操り人形浄瑠璃」の頭・衣装の保存・伝承は、人形の頭78点、衣装80点の多くにのぼります。特に頭にある墨書銘 天狗久・由良亀等からみて阿波系の頭であり、植毛やつめの古風さから、操りは真桑の文楽系とは異なり淡路系といえます。 年々操り手・語り手・弾き手などの伝承が困難となり、現在では三番叟・鎌倉三代記・太閣記などの芸題の技術伝承が中心になっている現状です。 |