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桜堂薬師には絵馬と献句額等も数多く保存されています。 絵馬奉納のことは平安時代以後、公家や武家の間に起こり、鎌倉、室町、江戸の各時代を通じて益々盛んになって名画が神社、仏閣に納められるようになりました。 絵馬の起こりは、奉納者が家運、武運諸事成就を念じて神社などに馬を献上する代わりに馬の絵を代用して納めたもので、初めは紙に画いたものや、板画きの小品でしたが次第に大作、芸術作品が奉納されるようになり、庶民や神社には社頭を飾る芸術品として迎えられ、現在まで大切に保存されて来たものです。 桜堂の絵馬は7枚ありますが、そのうち、慶長絵馬・寛文絵馬・亨保絵馬・文政絵馬の4枚が県・市の指定となっています。なお、このほか、寛文7年(1667)10月の「角力」同11年の「武士3人」及び亨保の「松に鷹」の絵馬もありますが、いずれも江戸時代のすぐれた絵馬です。 |
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「慶長絵馬」は岩村藩主松平和泉守源家乗が慶長18年(1613)10月に奉納したもので土佐派の画風による温雅で生気にみちた傑作です。縦111cm、横137cmで作者は不祥です。 ![]() |
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「寛文絵馬」は寛文11年(1671)5月中興再建の外護となった岩村藩主丹羽式部少輔藤原氏純が奉納したもので、慶長絵馬の左向きに対し寛文絵馬は右向きの馬が描かれており、縦101cm、横146cmです。 ![]() |
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亨保の「風俗絵馬」は、名古屋の薬問屋宮崎某が、亨保3年(1718)5月に奉納した盆踊りの浮世絵で、当時の上流庶民の生活を偲ばせています。縦101cm、横146cmです。 ![]() |
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「文政絵馬」の「松に鷹」は、藩主松平能登守乗保が狩野洞琳藤原由信に描かせたものですが、風雨にさらされたためか板面の摩滅やいろあせが多少現れています。縦98cm、横120cmです。 ![]() |
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舞楽面とは、奈良時代中国の唐から伝来した舞楽に使う面のことで、舞楽の動作に合うよう象徴風に造られています。 薬師の舞楽面のうち「陵王」「納曽利」の2面は、顎が動くように造られています。 奈良時代に伝来した舞楽がわが国で最も盛大に行われるようになったのは平安時代で、宮廷や神社・寺院などで行われ、この時代の代表的な舞楽面は春日大社・厳島神社・法隆寺などに残っています。 この桜堂薬師のものは、「抜頭」を加えてわずかに3面のみですが、舞楽面が残っていることで県内ではまことに珍しいものです。このうち「陵王面」を例にとると鎌倉時代の作と推定されており、技法は精巧でうるしが用いられて盛上彩色がなされ、材は檜、顎は上下に動くように造られ、内面は麻布をうるしで固め張られています。この3面の舞楽面は、元亀2年(1571)10月織田信長の兵火からまぬがれて存在する往時のもので、桜堂薬師の歴史を立証する貴重な文化財の一つです。 |
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桜堂薬師は、瑞桜山桜堂薬師又は妻薬師とも称し弘仁3年(812)三諦上人覚祐によって開かれた嵯峨天皇の勅願時です。元亀2年(1571)10月の兵火で焼失、直ちに再建、台風、地震により大破、寛文7年(1667)に現在の建物が再建されました。 安置されている仏像はたくさんありますが、その中の代表的なものが指定されています。 |
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坐像でおよそ70cm、台座より光背までは150cmあります。 ![]() |
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坐像彩色像でおよそ70cmで、台座より150cmあります。 ![]() |
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坐像彩色像でおよそ70cmで、台座より150cmあります。 ![]() |
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「東方持国天王」「西方広目天王」「南方増長天王」「北方多門天王」各一体の4体で立像です。伝記によれば元亀年間に神箟城主遠山三兵信友が仏工5名に命じて造らせたとあり、大きさは各240cmあります。 ![]() |
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宝暦五年乙亥(1755)春、東美濃の俳人安藤松軒範高が、桜堂薬師の境内に、尾張の俳人蓮阿坊白尼、五条坊木児、横井也有等を招請して盛大なる句会を興行して、この成果を薬師堂に奉納しました。この時東美濃地方からは息子の白兔をはじめ、釡戸宿の遊道、兔江(代官松井氏)等7名、地元土岐からは4名が参加しました。 松軒範高は下街道釡戸宿大島村に住み、代々医を業として領主馬場氏に仕えたといわれています。従って安藤家は、この地方においては、上層階級の家柄であったらしく、松軒は医業の傍ら、俳諧を嗜み、竃山人と号しました。 一方、加賀千代女との交流については、さきに岩村の推巴との交流を通じて支考や盧元坊を知りました。東美濃地方は美濃派の俳諧が盛んであったので、松軒が支考たち美濃派の人脈を通して、千代女を知り得たとしても、いささかも不思議ではないと思われます。 彼女より送られた色紙や書簡が、今尚某家に保管されています。 色紙には「紅粉指した 口を忘れて 清水哉 ちよ女」とあります。 |
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宝暦句会が行われて30余年後の寛政三年(1791)再び、桜堂薬師で大句会が行われました。瑞浪市内における江戸時代の第一期の文化開花期の総仕上げとも言われる時代だけに、主催者である二代目松軒白兔が中心となり、市内各村々から30人、他に県内及び県外を含め80余人が参加し約210句を奉納しました。 この句会の中心人物である白兔は、父親松軒の辞世の句である「蓮の実や どこへなりとも 飛び次第」に対して、「飛んだ実の はえて又とぶ 蓮哉」と辞世の句を残しているのは有名です。墓は釡戸駅の北の丘の上にあります。 |
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この句額では、各務支考を措いては考えられません。支考は美濃で生まれた江戸中期の俳人で、蕉門十哲の一、連句に、長歌行、短歌行などの式を設け、また和詩を創め殊に体系の立った俳論を組織、芭蕉没後は平俗な美濃風を開いた。いわゆる美濃派の始祖であり、編著には「葛の松原」「笈日記」「梟日記」などがあります。 この句額は恐らく地方美濃派の流れを酌む俳人達が巻を捲いて薬師に奉納されたものと推察されますが、始祖の支考が、右下がりの文字を書く癖があったので、当時の風習に従い、始祖に真似て達筆な文字を配しています。 |