Reading record   読書の記録

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☆中学校課題図書を読む 2003.8
【ドッグ・シェルター】今西乃子著 金の星社
 少年院で行われているドッグトレーニングを通して,少年院に収容されている少年たちと捨て犬,そして犬の新しい飼い主になった自閉症の少年の姿を感動的に追うノンフィクション。捨て犬たちは,この場所で人間への信頼を回復していく。そして,少年たちも信頼の尊さや自分自身の存在価値を再確認し,人間性を回復し,社会復帰する。「無償の愛」「命」「責任」「信頼」まさに,犬と少年たちの感動的な再出航の物語。最後はこう結ばれている「犬を愛し,犬と過ごしたマクラーレン少年院の子どもたちはすでに百人をこすが,再犯を犯した者はただの一人としていない。ただの一人としてー。」

【ホワイト・ピーク・ファーム】バーリー・ドハーティ著 あすなろ書房
 イギリス中部の農場ホワイト・ピーク・ファームで暮らす家族の物語が思春期のジーニーの目を通して語られる。様々な葛藤や対立を生みながら,それぞれの道を歩み出す四人の子どもたち。変化を嫌い,農場を維持し,それを息子に受け継がせようとする父,様々な思いを抱きながら家族を支える母。隣家で暮らす祖母の物語から始まる心温まる家族の絆物語である。

【水底の棺】中川なをみ著 くもん出版
 平安末期から鎌倉にかけての激動期,紆余曲折の末,最終的には農業用水の確保のために狭山池を修復する名もない市井の若者(小松)とそれをとりまく多様な人々や過酷な社会を見事に描いた歴史ロマン。おさななじみ(ゆう)との心の通い合いと運命には涙を誘われる。また,東大寺再興に執念を燃やしそれを成し遂げる重源など魅力的な人物が生き生きと作品の中で息づいている。

William Blake
   「Tiger」 作品論

ウリアム ブレイク の「Tiger」は、一連四行の六連二四行で構成された定型詩である。
 一連と六連は、四行目が、Could(一連)
、Dare(六連)になったいるだけで、繰り返しになっている。以下一連と六連の原詩と訳を示す。
(一連)
 Tiger,Tiger,burning bright
In the forests of the night,
What immortal hand or eye
Could frame the fearful symmetry?
(六連)
Tiger, tiger, buring bright
In the forests of the night,
What immortal hand or eye
Dare frame the fearful symmetry?
(一連)
 虎、虎よ、燃える輝き
 夜の森の中で、
 どんな神の手やどんな神の目が
 恐ろしいほどの均整のとれた骨格を作ることができたのか?
(六連)(三行略)
 恐ろしいほどの均整のとれた骨格を作ることをあえてしたのか?

 このCouldから、Dareへの変化を中心に論じていきたい。
 一連で、虎の完璧なまでに完成された美に驚嘆している詩人は、神の造形の技に畏怖の念を抱いて、詩を読み起こしている。同じく美を求める芸術家にとって、虎の完璧な美を作り得た神に対して、善悪を越えてCouldと、驚嘆している。
 それが六連では、Dareとなり、詩人の心情に変化が見られる。
 その変化が、どこからきたのか二連、三連を見ると、虎という美の完成に酔っているかのごとくの詩句が連なる。すなわち次のごとくである。
In what distant deeps or skies
Burned the fire of thine eyes?
On what wings dare he aspire?
What the hand dare seize the fire?

And what shoulder and what art
Could twist the sinews of thy heart?
And,when thy heart began to beat,
What dread hand? and what dread feet?
(訳)
 どんな彼方の海や彼方の空にて
 汝の瞳の炎が燃えているのか?
 どんな翼で神は何を切望し
 どんな手で炎をとらえたのか?

 そしてどんな腕そしてどんな術で
心臓の筋肉をねじったのか
 そして心臓の鼓動が始まったとき
 どんな恐ろしい手、そして恐ろしい足を

 三連目の四行目にいたって、虎のどう猛さに注意が向いていく。それが、四連目につながり、次のように歌い上げられる。
What the hammer? What the chain?
In what furnace was thy brain?
What the anvil? What dread grasp
Dare its deadly terrors clasp?
(訳)
 どんなハンマー、どんなチェーン
 どんな炉で脳を鋳て
 どんな鉄床で鍛えたのか
 いかなる恐ろしい指で恐怖を握ったのか

 ここで、詩人は、美の対象である虎の性質を思い、その猛々しさや、どう猛さに身震いし、神の意図に恐怖を感じている。それが、五連へとつながり、
When the stars threw down their spears,
And water'd heaven with their tears,
Did He smile His work to see?
Did He who made the lamb make thee?
(訳)
 無数の星の光の槍を投げ、
 涙で空をうるおした時、
 神は完成した虎をみて微笑まれたのか
 子羊を作った神が虎を作ったのか

 子羊を作った神が虎をも作り上げたことに対して、神の意図をはかりかねている。いやむしろ、神の意図を推し量って戦慄を感じているといってよい。ゆえに、六連において、 Dare frame the fearful symmetry?
と、結んでいると考えられる。この詩は、美そのものに感嘆する心と、美を作り出すことへの恐れを虎という対象に込めている。つまり、「虎」は、詩人の芸術観を歌い上げた詩であると言えるのではないか。


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シェイクスピアの4大悲劇について

 シェイクスピアの4大悲劇は、『ハムレット』、『オセロウ』、『マクベス』、『リア王』の4作品である。
 執筆年代に関しての研究は諸説あるが、福田恒存氏の研究では劇場での上演記録などから、次のように推定している。
 ハムレット   1600年
 マクベス 1601年
 オセロウ 1602年
 リア王 1604年
 また、多くの説では、
 ハムレット   1600年
 オセロウ    1604年
 マクベス    1605年
 リア王     1605年
 と、しており、『オセロウ』、『マクベス』の創作順が違っているが、『ハムレット』を4大悲劇の最初。『リア王』を最後としている点は、一致している。創作順は、シェイクスピアの悲劇の深まりや方向性を探るのに重要であろうが、シェイクスピアの悲劇が、他の三作品を経て、『リア王』をもってある到達点に達したことは言えるのではないか。
 この時期のシェイクスピアは、悲劇時代といわれる時期であり、4大悲劇以外にも、数本の悲劇を創作している。しかし、シェイクスピアは『リア王』以後、悲劇は3作品を執筆しただけで、二度と悲劇を書かなくなった。それぞれの作品の違いや、その中に描かれる「死」を比較検討する中で、悲劇ということについて考えてみたい。
 『ハムレット』は、他の悲劇とは違って、最初から悲劇的な場面が設定されている。すなわち、ハムレットの父が父の弟によって殺され、母がその后になったことを知らされるのである。このような特殊な状況に立たされた者は、おそらくそれ以後起こる様々な悲劇から逃れることはできないであろう。悲劇は、主人公の選択や思考や行動とは別の所ですでに用意されているのである。主人公は、その運命ともいえる中へ、必然的に飛び込んでいく訳である。この点が、他の作品とは異なっており、壮大な悲劇ではあるが、もしかすると自分の身の回りにも起こるかもしれないと言うレベルでの緊迫感は伝わってこない。さらに、『ハムレット』における主人公ハムレットの死は、デンマーク国の秩序回復に寄与する。その意味で、『ハムレット』の作品世界は、一個人の悲劇が世界全体を救う形になっている。
 それに対して『マクベス』における死は、社会全体から抹殺されるだけで終り、権力欲へ固執したマクベスの悲劇は、個人の中で完結している。そして、マクベスの悲劇は、人間の権力欲や猜疑心といった誰もが持つ人間の根元的な欲求に根ざしているところが『ハムレット』より、身近に悲劇を感じることができるゆえんであろう。
 二作品の死の形は違うが、作品を比較すると、精霊や亡霊、魔女等の現象によって示唆を受けたり、苦痛を受けたりする共通点がある。そこには、人間の罪とそれを支配する絶対的存在による罰という構造を持っている。マクベスやその妻の苦悩は、罪の意識と絶対者から受ける罰の恐怖におののいているところに起因している。夢や超自然現象を借りて人間を罰する手法をとっていると解することができる。
 それが、『オセロウ』や『リア王』になると、絶対的な存在の登場場面や超自然現象、暗示的な場面等は極端に減り、オセロウやリア王が悲劇を引き起こしていく契機や選択の分かれ目は、人間の業(ごう)によって引き起こされてくる。
 オセロウは、イアゴウの讒言によって、最愛の妻を殺し、その過ちに気づいて自らも自刃する。過ちに気づいてのオセロウの死の形は救いである。死によって、イアゴウに操られる人生から解放されるのである。そして、イアゴウの罰も人間の法が裁くのである。
 死がすくいとなっている点は、『ハムレット』の次に位置すべき作品と言えるかもしれない。
 『リア王』では、不実な娘二人の言葉に騙されることからリア王の悲劇が始まる。そして、その娘たちの死、最愛の娘コーデリアも死に、老いたリア王も死んでいく。この死には、『ハムレット』や『オセロウ』における死のように救いも、『マクベス』の死のように苦悩からの解放もない。『リア王』の悲劇は、親子の愛情という絶対視していいような観念の中に潜む悲劇である点からも、選択の過ちで誰の身にも起こりうるような悲劇である点で、究極の悲劇と言えるのではないか。親子の愛情というテーマを扱いながら、みごとに人間の心の中に潜む欲心という悪魔と、それに操られる人間の弱さと脆さを提示した作品である。平凡な日常の中に潜む魔の手を示すシェイクスピアの悲劇は、ここに完成したといえる。

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Edger Allan Poe 「The Raven」
 その特質と背景となる時代および社会

 ポーは「The Philosophy of Composition」(1846)の中で、「The Raven」(1845)について、次のように述べている。
  ぼくは最初にクライマックスを、すなわ  ち結びの問いを頭の中で考えておいた。  それは《Nevermore》が最後の答えとなる  はずの問い、この《Nevermore》という言  葉が、考えられる限りの悲歎と絶望をこ  めて答えるべき問いであった。こんなわ  けで、この詩は終わりから始まったと言  っていい。なぜなら、予めここまで考察  を進めてから初めてペンを執って、次の  連を構成したのだから。(篠田一士訳) 次の連とは、「The Raven」の一六番目の連である。 
“Prophet!”said I,“thing of evil! prophet still if bird or devil!
By that Heaven that bends above us -by that God we both adore,”
Tell this soul with sorrow laden if,within the distant Aidenn,
It shall clasp a sainted mainden whom tha angels name Lenore-
Clasp a rare and radiant maiden whom the angels name Lenore.”
Quoth the Raven-“Nevermore.”
 「《Nevermore》という言葉が、考えられる限りの悲歎と絶望をこめて答えるべき問い」と「The Philosophy of Composition」にあるのは、今はなき愛するレノアをエデンの園で自分の魂が抱くときがくるかという問いを発した後の鴉の答え「もはやない」である。その突き放した冷酷な答えは、読者にも衝撃を与える。
 最愛の人レノアを亡くし、悲嘆にくれている話者は一縷の望みをつないで、不吉な来訪者にその絶望的な願望を伝えるが、予想したように答えは《Nevermore》であった。無限地獄に堕ちるがごとき一撃である。
 作者自身がこの詩の構成を示したように、それまでの一五連は、一六連を劇的にするまでの準備であった。徐々に高まる不安と恐れ、そして心を支配していく鴉の姿と繰り返される言葉。導かれるごとくに話者は破滅の問いを一六連で口にしてしまう。運命論を持ち出すまでもなく、悲劇は着々と準備されていた。
 ポーの長詩「The Raven」は、一幕劇を見ているかのような印象を与える。このクライマックス一六連に続く一七連と一八連の神秘的で劇的な終焉は、舞台で言えば幕引間での余韻であろうか。それとも、観客の拍手の中に広がる個々の虚無の世界であろうか。
 一七連、話者は鴉に「take the from from off my door!」(私の扉から飛びったてしまえ)と絶叫する。当然その答えもNevermoreである。話者の目に映る鴉は悲しみから生まれた、幻想であったのか。やや古風な予言者の使途であるかのような鴉の存在は、実は悲嘆にくれる話者の心の空所に存在する幻覚であったのだ。
 さらに一八連を「And my soul from out that shadow that lies floating on the floor / Shall be lifted-nevermore.」と、締めくくる。ここで、ポーは鴉の種明かしをしてみせる。これは、数多くの幻想的で審美的な小説や探偵小説を手がけた作者ならではの手法であろうか。つまり、鴉の影から逃れることが出来ない話者の絶望がそこにある。愛するものを失った悲しみから永遠に抜け出せないであろう悲劇で締めくくっているのだ。
 「The Raven」の中で、愛情を注いだ相手として登場するレノアという女性に捧げた詩がポーにはある。「Lenore」(1831)がそれである。レノアの死を痛む挽歌である。ポー自身は、「The Philosophy of Composition」で、憂鬱な主題(死)が、もっとも詩的なのは美ともっとも結びついたときであるとのべ、さらに、恋人と死別した男の口から語られてこそ最も似つかわしい、と、述べている。まさに「The Raven」、「Lenore」は、恋人と死別した男が話者となっている。つまり、これらの詩編は題材設定からも構成の上からも、観客を意識した劇仕立ての感がある。
 ポーの活躍した時代は19世紀半ばあるが、ポーの作品に投影される時代背景や社会状況は決して豊でも幸福でもなかった。むしろ、養父との対立や酒や賭博にからむ喧嘩や貧困、成功を収めそうになると、自らの言動でその芽をつみ取ってしまうことが多かった。しかし、その詩作はエリオットをして「ボードレーヌに始まり、ヴェルレーヌにおいて頂点に達するフランス詩の伝統がポーに多くを負っていることを忘れてはならぬ」と、フランスの純粋詩に影響を与えたと明言させるほどに、文学史上には輝かしい足跡を残した。
ただ、実生活では「The Raven」の2年後に妻が死亡。その2年後にはポー自身も泥酔し街角で倒れ、命を落している。

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 J.D.Salinger「NINE STORIES」
 『バナナフィッシュにおあつらえむきの日』


 『バナナフィッシュにおあつらえむきの日』は、「NINE STORIES」(1953年)という九つの短編を収めた自選短編集の最初に掲載されている作品である。
 1940年〜1953年にサリンジャーは、30数編の短編を執筆している。自選短編集「NINE STORIES」は、その中から、サリンジャー自らが選んだ9編が収められているわけだが、作品の執筆年を見ると、1948年『バナナフィッシュにおあつらえむきの日』から、1953年『テディー』までの6年間に執筆した9つの作品を掲載している。1951年に代表作「ライ麦畠」を書いていることからわかるようにもっとも精力的に作家活動していた時期の作品から9編を選んでいることになる。サリンジャーは、他の短編の単行本掲載を拒否していることからしても自らが代表作と考える作品が「NINE STORIES」に収めていることがわかる。
 その「NINE STORIES」の冒頭の作品が『バナナフィッシュにおあつらえむきの日』である意味は大きい。シーモアの拳銃自殺という形で作品世界が閉じることについて、もっとも興味を感じたので、その点を中心に感想を述べてみたい。
 シーモアのとった行動は、神経症による発作的な行動と受け取ることが出来る。躁鬱病か、分裂症かそういった神経症が誘因となり、とっさに自殺を選んだ。シーモアが退役軍人であるかのような書き方からして、従軍により何らかの精神障害をこおむったと見ていいのではないか。バナナフィッシュの話は、南方戦線でのむごたらしい体験の比喩的表現ではないか。シーモアの内面は、茫漠とした虚無が広がっていて、日常的な生活や他人との関わりに支障をきたしている様子が、作品の随所にある。冒頭のミュリエルと母親の電話での会話の部分では、例えば、次のような部分である。
  木にまた例の変なことをしたんでないで  しょうね?(中略)例の木のことも。窓  の件も。彼が祖母さまに死んだらどうす  るかなんて訊いた空恐ろしい件のことも。  (中略)バスローブを脱ごうとしないん  だから。
 これらは、シーモアの奇行についてふれた部分だが、神経症的な行動がわかる。
 そして、海岸での少女シビルとの会話は、かみ合っているようで要領を得ないものである。その中で、シーモアは「それで何もかもはっきりした。みんな何のことかわからないだろうね」とぽつりという。読者には、何のことかわからないが、神経症のシーモアにとっては、なにかぴんとくるものがあったのか。その後「ちび黒サンボ」の話「バナナフィッシュ」の話を経て、部屋へ戻るエレベーターでの奇妙なやりとりがある。シーモアの発言を抜き出す。
 「あんたがぼくの足を見ているんだね」  (中略)「あんたがぼくの足を見ている  といったんだ」(中略)「ぼくの足を見  たければ見たいと言えばいい」若い男が  いった。「ただし、こっそり見るような  変な真似はご免だね」(中略)「ぼくの  足は二本とも、まともな足なんだ。なん  だってみんなじろじろぼくの足を見やが  るのか、さっぱり理由が分からん」
 これらは、被害妄想的な言動として受け取れる。他と違うと言うことをユダヤ人の血を引く作家として差別問題等から強く感じていた強迫観念の現れではないか。いわば、シーモアの死は精神の解放、救いの一つの形を示したのではないか。つまり、死によって、シーモアは精神が解放され自由になり、救われたと考えることが出来る。
 『バナナフィッシュにおあつらえむきの日』は、単に執筆年が早いと言うだけでない理由で、短編集「NINE STORIES」の最初に位置していると思われる。なぜなら「NINE STORIES」は、9つの物語全体で一つの作品空間を形作っていると言ってもいいもので、その意味で、連作小説にも似た読みを「NINE STORIES」考えるときにするべきであるように思える。中川敏訳の集英社文庫の「九つの物語」の解説においても、「九つの物語」相互の短編が持つ意味関係や「ライ麦畠」を含めた他作品との関連が解説されており、大学のテキスト「アメリカ文学史」のP.177にも「グラス・サーガの起点となる「バナナフィッシュ」について考察する必要があります。」とあるように作家サリンジャーの伝記とサリンジャーの文学世界全体と常に対比しながら読みの地平を広げていく必要がありそうである。
そこから始まる作品集「NINE STORIES」は一つの救いの形態をなしている作品集であることいえなくもない。

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未明童話の今日的意義

 小川未明は、童話を「子供のためのものとは限らない。そして、子供の心を失わない、すべての人類に向かっての文学である。」と、考えていた。また、「私の書くものが、真実でありたいという願いから、自分の作にかかる小説と童話とに、その間あまり差別のあることを望むものではありません。」とも述べている。つまり未明童話を考えるとき、その作品は子供だけを対象に書かれていないということを念頭におく必要がある。
 未明が童話を書き出した頃は、児童文学は他の文学とまだ未分化であり、文学的価値を論じられる作品は、極めて希であった。未明処女童話集『赤い船』(M43)が、出版された頃は、日本における児童文学の黎明期であったと言える。『赤い船』は、文学史的にみて、日本最初の創作童話集であり、「童話を純粋に文学として確立した最初の道標である」と、評されている。未明は当時既に小説家として活躍しており、『愁人』(M40)はじめ4冊の小説集をを出版している。その未明が平行して童話を書くようになり、やがて童話作家宣言(T15)で童話に専念するようになる理由は色々な角度から研究されているが、その最も根本的理由は未明の作家としての資質にあると思われる。
 未明は作家としての出発期においても少年、少女を主人公としたものが多く、少年時代の「純真な感情」を描いている。「少年主人公の文学」(M44)という評論を書いていることからも、少年や少女を描くことは、意図的であったと言える。「純真な感情」は、作品の中で「あこがれ」となり「思慕」となり「思い出」となって描かれる。未明の作風は、ネオロマンチシズム期、社会主義的な傾向の時期、リアリズム・ヒューマニズム期などに分類整理されたりもしているが、それら50年以上にわたる作家としての活動期を貫いているものは「純粋な感情」を描くことであった。
 未明童話が今日の読者にとって、どんな意義を持つのかは、未明を研究する場合重要な視点の一つになる。代表作ばかりでなく、未明の千編を越える膨大な童話作品を再度詳細に検討して、現在の読者にとっての作品の意義を考え直していかなければならない。教育現場でも未明童話が再び教科書に載り始めた。「のばら」の授業記録を特集した雑誌が出版されたり、「殿様の茶碗」や「牛女」などが、副教材として取り上げられたりしている。 
未明童話における今日的意義は何か。これからも小川未明という偉大な郷土作家を研究し、今日的意義を発見、提示したいと考えている。

未 明 童 話 の 復 権

 郷土(上越市出身)の偉大な童話作家である小川未明は、童話を「子供のためのものとは限らない。そして、子供の心を失わない、すべての人類に向かっての文学である。」(「私が童話を書くときの心持」『早稲田文学』大正10.6)と、考えていたようである。つまり未明童話を考えるとき、その作品は子供だけを対象に書かれていないということを念頭におく必要がある。
 未明が童話を書き出した頃は、児童文学は他の文学とまだ未分化であり、文学的価値を論じられる作品は極めて希であった。未明処女童話集『赤い船』(京文堂、明治43.12)が、出版された頃は、日本における児童文学の黎明期であったと言える。『赤い船』は、文学史的にみて、日本最初の創作童話集であり、「童話を純粋に文学として確立した最初の道標である」と、評されてもいる。その評価が、戦後逆転したわけである。
 未明童話は、以前の小学校教科書には必ずといっていいくらい採用されていた。しかし、ある時期から、どの社も小川未明の作品を載せることを取りやめている。これは、戦後の児童文学者や童話作家らによる痛烈な未明批判が影響しているものと思われる。未明の評価として、否定論が定着しているのは、大変残念なことである。
 未明の如何なる点が否定されているかというと「ストーリーがネガティブであり子どもに読ませるものとしては失格である。」というのである。しかし、これは未明童話の本質をついた論であるとは思えない。そもそも未明は、子どものみを対象に創作していない。更に言えば、未明をストーリーがネガティブということで、未明童話を否定することによって児童文学からネガティブなものを排除したら、児童文学の領域を狭め、底の浅いものにしまうのではないか。
 最近、後世に残る児童文学が少ないように思うが、このことが影響していると言ったら、言い過ぎだろうか。
未明の代表作である「赤い蝋燭と人魚」や「金の輪」、「野ばら」等を読み返すとき、人間としての生き方やかかわり方、命などについて、考えさせられる。今、児童・生徒に考えて欲しい問題、大人も共に考えて欲しい問題を多分に含んだ作品であるといえる。
 教材としての未明童話の復権、読書としての未明作品の復権を望みたい。未明の千編を上回る童話作品や小説、評論等を再度詳細に検討し、現在の読者にとっての未明作品の意義を考え直していきたいものだと考えている。
私は、未明童話には、友だち関係や人間関係を考える上での、意味深い作品が多いと思っている。幼年期、少年期に是非読んで欲しいと思うとともに、親や教師による読み聞かせも大切だと考えている。

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私がすすめるこの一冊 育てる学校カウンセリング@ 子どもの心を育てるカウンセリング 國分康孝編著 学事出版

 編著者の國分康孝はまえがきで「学校カウンセリングになじみの少ない教師にも手にとりやすいもの」と本書のコンセプトを説明している。つまり、学級担任や教科担任が、生徒と接する具体的な場面でのカウンセリングの活かし方を原理と実践例をもとに提唱しているわけである。
 人間関係が希薄な時代である。子どもたちは人とのふれあいをあまり体験しないまま成長する。いじめや不登校といった教育の緊要課題もそこに起因することが多い。「心の教育の充実」の答申を引くまでもなく、子どもたちが経験してこなかった心のふれあいや連帯感を追体験させることは、学校教育が担う重要な側面となった。ゆえに、すべての教師が「育てるカウンセリング」になじみ、学級経営や授業の場面で使えることが大切であろう。「育てるカウンセリング」を実践することは、人間関係を体験学習させることにもなるからである。
 本書は、学校教育の五つの場面での「育てるカウンセリング」の実際例が示されている。その場面は、@学級での構成的グループエンカウンター、A教育相談や生徒指導場面での個別対応、B生き方指導の進路指導、C授業、そしてD集団を育てる特別活動である。
 本書によって、とかく「受容」だけが強調されている「カウンセリング」そのもののイメージが一新されるのではないかと思っている。

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読書への誘い

 『マディソン郡の橋』ロバート・ジェームズ・ウォラー(分藝春秋社刊)
  昨年のベストセラー作品。人を好きになるということと、生活するということに差異を生じると、人はそこでどちらかを選択し、どちらかと訣別しなければならない。キンケイドは旅立ち、フランチェスカは、とどまった。
 新しい恋愛のスタイルを示した名作。村松潔の訳も、透明感がある。流麗な文体は、翻訳小説特有の言い回しに対しての違和感も少ない。エッセイスト南美希子は「久方ぶりのことです。本を読みながらポロポロ涙をこぼしたのは・・」と紹介している。

 『やがて哀しき外国語』村上春樹(講談社刊)
 「自分の思っていることを日本語ですらすらと口語的に表現できない人は、外国語をいくら熱心に勉強したところで、その言葉でもやはりうまくは話せないだろう。」(作中より)
 国語教師としては、妙に納得し、何故かうれしくなる一節。
 私が学生の頃、村上春樹がやっている千駄ヶ谷の喫茶店によく行き、ミーハーだからサインなどをもっらったこともある。一緒に神田にある洋書屋さんに行ったものだ。
 村上春樹といえば、恋愛小説では大ベストセラー『ノルウェーの森』がおすすめ。4月12日に発売された『ねじまき鳥クロニクル』(まだ読んでいないが)も、きっとおもしろいだろう。今日の新聞に「スリリングな展開」と紹介されていた。『やがて哀しき外国語』は、エッセイ集。なかなかおもしろい。村上春樹フリークには必読の書か。

 『寺山修司詩集』寺山修司(角川書店)
 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(作中「チェホフ祭」より)
 寺山修司を読んでいたのは学生時代。昨年出版されたこの詩集は没後十年を記念した寺山修司フェアの一環としてのもの。懐かしさで、買ってしまった。「書を捨てよ、町へ出よう」などの著作を読んだときの気分は今の忘れられない。ある本を読み、それに感動するにふさわしい年齢というものがある。みんなも、タイムリーな読書をして、忘れられない一冊に出会ってほしい。

 『ふるさと文学館(第一九巻)』責任編集 田中榮一(ぎょうせい)
 新潟が舞台となっている作品を集めたもの。
 中野重治「しらなみ」、小川未明「牛女」、太宰治「佐渡」等を収録。作品解説も充実しているようです。連休にじっくり読もうと思っている一冊です。考古堂から出版されている『文学風景への旅ー再発見!にいがたガイド』を合わせて読むと理解が深まるかな。

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豊かな表現
   豊かな心

 現在読みかけの本は、村上春樹の『ねじまき鳥のクロニクル 第三部 鳥刺し男編』です。村上春樹は私の最も好きな作家の一人ですが、この作品は「表現」に対する彼の新たな挑戦を感じさせる不思議な魅力を持った文体であり、構成です。
 読書の仕方は人それぞれでしょうが、私は、気に入った作家の作品を次から次へと読むのが好きです。何冊か読んでいくと、その作家の癖や独特の表現がたまらない味わいとなって自分に寄り添ってくるのを感じるのです。
 小説や伝記であれば、ストーリーの展開や登場人物の考え方や行動、エッセイや評論などであれば、筆者の思想や思考の展開のさせ方なども、読む意欲につながる重要な要素ですが、私は「あ、この言葉がまた出てきたな。作者はこの言葉に思い入れがあるんだな」とか「この言い回し、これがいいんだよな」とか「ふーん、そんな風に感じるのか」などと思いながら、イメージの広がりを楽しみながら読むのが合っているようです。
 これを書きながら思う今の気持ちは「夏休みになったら文庫本一冊持って気に入った場所に行き、いっとき読書に没頭したいな」です。
 ぜひみなさんも自分なりの読書の楽しみ方を見つけだして下さい。夏休みは、心を豊かにする宝石のような時間です。「書を捨て町に出よう」と詩人寺山修司は若者に語りかけましたが、あえて「書を読み、表現力を磨こう」と、呼びかけたいと思います。


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