教会

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小さな手・大きな手

 〜 西宮公同教会の週報に掲載される、牧師からのメッセージです。 〜

 2005年9月11日

 昔々ある国に、「・・・カイカク、カイカク」と、なんでもカイカクの殿さまがいました。殿さまの名前は“コイズミ”です。
 コイズミは、“フン、ソウ、ネ、カイカク”とか“ドウモ、コウモ、イイネ、カイカク”とか言うだけで、その国のほとんどのことは“カンリョウ”が決めていました。
 カンリョウが「景気が悪い、カイカク」「景気対策、カイカク」で大騒ぎすると、“フン、ソウ、ネ、カイカク”“ドウモ、コウモ、イイネ、カイカク”で借金のしまくり、国の借金は、どんどんどんどん増え続けるのでした。
 他でもない、殿さまのコイズミが“ラチヒガイシャ”のことを認め、カンリョウに「キタに行ってショウグンサマに会え」と言われやっと出掛け、“キタもショウグンサマも大悪党”カイカクカイカクの大合唱を、テをかえシナを変えあおりたてるのでした。
 そのようにして、景気が悪い、カイカク、景気対策、カイカク、どこもここも危ない、カイカクの大騒ぎになっている間に、カンリョウが準備した“周辺事態法”、“有事法制”、“武力攻撃事態法案”(注)、“盗聴法”、“君が代、日の丸”などの法律がどんどん決まって行くのでした。ついでに「教育基本法“改正”」「憲法“改正”」などにもカイカクの嵐が吹きまくっています。
 殿さまのコイズミは、遠い遠い国を戦争でカイカクするのが大好きな王さま“ブッシュ”と友だちであるのが自慢でした。ブッシュが遠い遠いくにのアフガニスタンやイラクにカイカクの戦争を仕掛けると、誰よりも早く賛成し少しばかりの援軍を送ったりします。で、王さまブッシュが自分の国の足下のカイカクを怠り、ハリケーンの大変な被害に慌てふためいているのも知らんぷりで、ユウセイカイカク選挙で国を挙げ大騒ぎしています。
 そのユウセイカイカクで反対の仲間には“シカク”を送り、言いたい放題のやりたい放題です。で、国民も一緒になってカイカクカイカクで浮かれ、コイズミの殿さまとカンリョウは、いつまでも安泰でいつまでも好き放題をし続けるのでした。
 メデタシ、メデタシ。

(注)武力攻撃事態法案
※ 「武力攻撃のおそれのある場合」「武力攻撃が予測される事態」を有事に含める。
※ 国民の自由と権利の制限。
※ 国民は「必要な協力をするよう努める」。
※ 政府の「対処基本方針」の作成。
※ 緊急時の「対処基本方針」国会承認前の防衛出動発令。
※ 首相を長とする「対策本部」の設置。
※ 首相への地方自治体、指定公共機関に対する指示権・代執行権の付与。
※ 国民保護法制・米軍支援法制の整備。
※ テロ・不審船に対しては必要な施策を講じる。

2005年8月28日

 “政治”が過剰に話題になる一方で、この国の社会のゆがみが顧みられる様子はありません。と言うか社会のゆがみが、過剰に語られる政治によって隠蔽されているように見えます。近所のミッションスクールで、教師によるセクシュアルハラスメントがあって、結局その教師が定年で退職するまで放置されることになりました。セクシュアルハラスメントという事実が許せないのはもちろんですが、寄ってたかって隠蔽するのはもっと悪質です。
 で、政治というものが力を込めて語らない、けれども政治が貧しい国の貧しい国民の貧しい選択にならないために、この国が抱えている本当の問題を少しばかり拾い上げてみます。
〔1〕“パチンコ業界の売上げが年間20兆円”だということについて。
 パチンコは、家庭に持ち帰るぐらいの景品交換のギャンブルに戻すべきです。一個ずつ、ねらいを定めて打った玉がやっと入って、“チーン、ジャラジャラ”と出てしまった時の感動、受け皿にいっぱいやっとたまった玉をチョコレートなどに変えて持ち帰った時のうれしさ、望みもしないのに手渡されたレコード針(だったと思う)を渡されて、何が何だか解らなかった時、連れに肩をつつかれて“こっそり”お金に換えてもらった時の驚き、ギャンブルというものはせいぜいこの程度であるべきなのです。なのに、この国では全国津々浦々昼日中から冷暖房完備でギャンブルが出来てしまえます。じゃなくって、汗水たらす働きと働く人が尊重されることを、言葉を尽くして伝えるのが政治というものの役割ではないのですか。
〔2〕命というものの尊さを、ちゃんと伝えること。
 命というものは、たとえば事件が起こってしまった時、殺してはいけないと大騒ぎしても手遅れです。生きていることの喜びや驚き、死と出会った時の絶望や悲しみを、共有しあう生活があって初めて、その尊さを身につけることができます。「・・・さまざまな組織になりうる胚性幹細胞(ES細胞)と、皮膚細胞を融合させることで、ES細胞と同じ能力を持つ新しい細胞を作ることに、米ハーバード大の研究チームが成功した」(2005年8月23日朝日新聞)。たとえ、こんなことが可能になるとしても、人としてゆずってはならないのは、“死や死ぬこと、人間として避けられない有限性、生命が相互依存し続けている”などのこと即ち命の尊さを、世代を越えて伝えることです。
〔3〕金利が12.5%〜28%にもなるようなお金を、貸したり借りたりするのを“改革”することは立派に政治課題であるということ。
 12.5%〜28%の金利を払えば、いとも簡単にお金が借りられることを毎日テレビで宣伝し続けています。当然、その為のおびただしい宣伝費が使われています。で先日、資金繰りに困って定期を解約したところ、金利は0.012%でした。汗水たらして稼いで預けた金利が0.012%です。なのに、毎日テレビで“お金は計画的に使いましょう”と(大きなお世話だ)公然と宣伝しまくっている金利が、その1000倍を越えるというのは、この国には政治というものが不在であることを何よりも端的に物語っています。
〔4〕憲法そして戦争について議論すること。
 自分の家族や自分の命を守ることに異存のあろうはずがありません。だから憲法について、戦争について議論することはとっても大切なことです。で、戦争という手段を放棄した憲法が用をなさないと決めつけてしまうのは、いかにも短絡しすぎているのです。あらゆる手段を尽くして戦争を避けるというのは、とことん貧しい選択ではありません。あらゆる手段を尽くし戦争に備える国が隣り合わせになった時、いつに戦争なっても不思議ではなくなります。戦争の為に憲法を変える議論に血道をあげるではなく、戦争にならない為のあらゆる議論、あらゆる取り組み、あらゆる実践をしてみるということが、政治によって取り組まれるとしたら、政治はそんなに遠いものではなくなります。
 教育や食料のことなど、この国の“政治”が語るに値することは他にもあると思う。

2005年8月21日

 沖縄で子どもたちがキャンプをする「沖縄教区研修センター/今帰仁」は、沖縄島の北部、本部(もとぶ)半島の北東、今帰仁村にあります。村の人たちの自慢の一つが、2000年に世界遺産になった今帰仁城(沖縄の言葉では、グスク)です。今年のキャンプでは、事前に今帰仁村役場にお願いして、“今帰仁村と今帰仁城のこと”を、子どもたちに話してもらう時間をとることになりました。で、8月4日に今帰仁村歴史文化センターで、村と村の文化のこと、城のことなど、いろいろと話を聞くことができました。
 「・・・まず、皆さんの頭の中にある、“日本の中の沖縄”という理解、考え方をすっぽり取り去って下さい」「・・・ここ沖縄は、日本とは全く別の歴史文化を持った国であった、という事実から始めて下さい・・・」。
 で始まった今帰仁村、今帰仁城のことなのですが、およそ700〜800年前、12,13世紀頃から城作りが始まったことが解っています。今帰仁城作りが本格的になったのは14世紀、“琉球/三山(さんざん)王朝時代”(琉球が北山、中山、南山の3つの王朝によって統治されていた時代)の北山(ほくざん)王朝の頃だと言われています。比較的小さな船であっても、島づたいに行き来が可能であった琉球の島々は、日本・中国・東南アジアの国々の交流の要になっていました。そして、それぞれの国々の特産を船で運んで交換する貿易が、琉球の島々に、三山(王朝)時代のような豊かな国の形成を可能にしました。そんな、豊かな財政的な基盤があって初めて、今帰仁城をはじめ、同時に世界遺産になった、中城城跡、勝連城跡、そして首里城(城跡)などの造営を可能にしたのです。
 今帰仁城は、今は城壁(積まれている石は“サンゴ”)しか残っていません。その全体の形状、積まれた石垣がゆるやかな弧を描いて起伏する様子は、いわゆる日本の城壁とはずいぶん異なって見えます。城・城壁は敵の攻撃を防ぐためのものであったといっても、全くそのことだけを目的にして作られてはいないように見えてしまうのが、たとえば今帰仁城の城壁なのです。
 一部は発掘され一部は復元された城壁は、遠くながめても、下に立って見上げても、手でさわっても違和感が無く美しいのです。争って奪い取ったものではない富で城を築く時、人々はその城を美しいものにしたいと願いました。その結果が、今帰仁城の美しい城壁になったように思えるのです。
 
 聞え今帰仁(みやきせん)
 百曲り(ももまがり) 積み上げて
 珈玻羅(かはら) 寄せ御(おん)ぐすく げらへ
 鳴響(とよ)む今帰仁(みやきせん)

(名高く鳴り轟く今帰仁は、城壁を百曲がりに積み上げて、珈玻羅を寄せる御ぐすくを造営して、立派なことよ)。

 キャンプ場は、その今帰仁城の一番高い城壁に立って、北の方に東シナ海を見下ろした先の、緑の熱帯植物の林が青いサンゴの海に面したあたりにあります。名護市から県道で北西に向かい、今帰仁村役場から左に本部半島の方向に約1キロメートル行った北山高校のあたりで右に曲がり、その先300メートルを左、さらにその先100メートルを右に曲がって畑の中をくねくね行くと、小さな坂の先が墓地になっていて、墓地の中の道はそのまま海にぶつかり行き止まりになります。そこが、キャンプ場です。たぶん、こんな説明では、誰も行き着くことは出来ません。畑の中のくねくね曲がった道は目印になるものはなくて、何回か通って慣れるよりないのです。およそ8000坪と言われる敷地には、赤瓦の建物と、50メートル×15メートルの元牛舎、公同幼稚園の庭にあるのと同じアーチハウスが3棟建っています。赤瓦の建物は元牧場の管理棟で、北側のアダンを切り払った崖を下りると、白い砂浜、サンゴ礁の海になっています。干潮の時には、いっぱい潮だまりが残って、大小、色とりどりの熱帯魚がそこで泳いでいます。ということは、沖縄島では珍しく、生きたサンゴがそこの海には残っているのです。

2005年8月14日

 子どもたちのキャンプで沖縄に着いてすぐ、沖縄島の南部にある平和記念公園に向かいました。平和祈念資料館で映像などを見た後、丘の端に立つと、はるかに見下ろす真青の海に、真白の台風の波が繰り返し押し寄せていました。公園そして資料館は沖縄戦の映像などはもちろんですが、なんと言っても強烈なのは、一面に並んだ黒の御影石とそこに刻み込まれた人の名前の印象です。あの石、“平和の礎(いしじ)”に沖縄戦で死んだ人たちすべての名前・日米軍及び沖縄の住民などの名前を刻み込んだのは、そうしたいという強い意志がないとできないことでした。一人一人生きてきた歩みがあって、一人一人の死はもしそれが戦争であれば恐怖や悲しみや憎悪などの叫びがあってそこで命を果てたことを深く心に刻み、刻み込みたいという強い意志があって、あの石の名前になりました。
 1945年4月1日に、沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)に、米軍約13万人が上陸(・・・支援する米軍などを加えると約55万人がこの作戦に参加したと言われる)、沖縄での地上戦は6月23日まで続きます。結果、日本軍・軍属・沖縄住民の死者は合わせて22万人に達しました(内、子ども・女性・老人などの住民の死者は約13万人。米軍の死者は約2万5千人)。80日余りの戦闘で、日米合わせて毎日3000人を越える人たちが死んでしまう“激戦”だったのです。ですが、約半数の沖縄の住民が激戦を闘った訳ではありません。激戦に巻き込まれて死んでしまったのです。圧倒的な劣勢の戦闘が、そこで生きる人たちの真っ只中で80日余り繰り広げられた結果、約13万人の沖縄住民の戦争での死になってしまいました。
 で、なんでそんな戦争になってしまったのだろうか。もともと、戦争というものは簡単に出来てしまうものではありません。兵士を訓練し武器を整えたりを制度化し、さらにそれを維持し続けるのはなかなか大変です。そして、相手があって、そこそこの理由がないと血で血を洗う戦争の開始にはなりません。のはずなのですが、軍隊というものを制度化し維持していると、簡単にやってしまえるのも戦争です。いつだって準備が完了している“軍備”は、ほんの少しのきっかけや理由があれば、どんな犠牲もいとわず、さっさと戦争に突入してしまえるのです。
 それにしても、戦争という手段を選んでしまえるのは乱暴です。どうして、そんな乱暴がまかり通ってしまうのだろうか。弾丸が飛び交って、そんなものがあたったりしたら、自分はもちろん相手もすっごく痛いだろうとか、で死んでしまったりしたら無念だろうし、家族も悲しむだろうと、いちいち、ああでもなく、こうでもなく考えたりすれば、戦争などという乱暴はやってはいられないはず、なのにどうして戦争になってしまうのだろうか。
 たとえば教育は、子どもたちと大人である教師が、その時々の課題に出会って驚いたり喜んだりしながら、未知のものに挑んでいく営みです。ところが、一方的に教えることが教育になってしまって、自分の意志を越えた強制の世界、空疎を生きてしまう時何が起こっても不思議ではなくなります。たとえば企業は、人が人として生きる生活の巾や深まりを、何よりも豊かさを共有し合う世界を作り出す為に力を尽くします。ところが、ほんの一部の人たちが、そんな生活を独占する為の企業になって、他にいっぱいかえりみられない人たちを生み出してしまう時の断絶は、結果として何が起こっても不思議ではなくなります。
 そんな、何が起こっても不思議ではないが、幾重にも幾重にも重なってしまう時、たとえば戦争という乱暴がちっとも乱暴ではなくなって、戦争が選択肢の一つになってしまうのかも知れません。たぶん、今この国が、そんな状況に近いのだと思います。

 2005年8月7日

 最悪の結果を生きることになったにせよ、太平洋戦争に至る15年戦争の敗戦の所産として生まれた「日本国憲法」は、この国と国民の未来への“念願”が形をとったものです。「自民党新憲法草案・条文案(全文)」(2005年8月2日、朝日新聞)は、憲法九条にこめられたこの未来への念願を踏みにじる、その一点で草案されています。かつての六法全書には、日本国憲法公布の時の勅語が記載され(昭和21年/1946年11月3日)、もう一つのこの憲法公布の理由として示されています。

 本日、日本国憲法を公布せしめた。
 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定されたのである。即ち、日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基づいて国政を運営することを、ここに明らかに定めたのである。朕は、国民と共に、全力をあげ、相携えて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和を愛する文化国家を建設するよう努めたいと思う。(日本国憲法公布記念式典の勅語)。

 ここに示されている「・・・念願し」「尊重し」「・・・努めたいと思う」などは、それらのことを実現したいという、強い意志を込めて語られ、書かれています。最悪の結果を生きることになったにせよ、こうしたことが言い得たところに、何ものにもかえ難い意味はあったのです。
 こうして、勅語に込められた理念は、さらに強い意志と言葉で表現しているのが“日本国憲法前文”と呼ばれているものです。そこでは“憲法の原理”として、「・・・そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び勅語を排除する」としています。そして「・・・崇高な理想を深く自覚し」「・・・公正と信義に信頼し」「・・・安全と生存を保持しようと決意し」、そして「・・・名誉ある地位を占めたいと思う」「・・・平和のうちに生存する権利を有することを確認」などのことを述べています。この国が、この世界でもう一度、最悪の結果を生きることがあってはならないという気概が、“自覚”“決意”“思う”“確認”など、意志のこととして述べられているところに、この“前文”の大きな意味があるのです。たとえば、そうして生きることは“名誉”であるとも言っています。何一つ代償を求めず、そのことに尽くす生き方を誇りに思う、それこそが名誉というものです。一つの国家と国民が、そんな意味での名誉を重んずるということは、どんな徳を立てるよりも意味のあることです。そして、この場合の名誉と徳の最もたるものとして示しているのが、日本国憲法九条であることは、言うまでもありません。戦争という手段の放棄、戦力を保持しないことを、名誉と徳であるとしたことが、何にもまして重要なのです。
 
 第九条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)
@ 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A 前項の目的を達するため、陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 自民党新憲法草案は、“・・・永久に放棄する”“・・・これを認めない”そのことが名誉と徳であり、そのことを強い意志で示しているのを、“平和主義の理念”に後退させ、似て非なるものにしてしまっています。
 “九条ミニブック”を販売しています。1セット500円で売上げは憲法九条を守る働きの為に使われます。
 

連絡下されば、週報、公同通信(月報)をお送りします。