2004/08/04 (産経新聞朝刊
【鼓動2004】台湾出身「元日本兵」たちの戦後歴史に埋もれた無名戦士国共内戦で捕虜、文革の迫害…帰還わずか ( 8/ 4)
 太平洋戦争に「日本兵」として出征した台湾青年たちがいた。その数、約二十万人に上る。彼らを中心に約一万五千人が終戦後、国民党政権によって、「国共内戦」の前線に駆り出され、蒋介石が台湾に撤退するや中国大陸に置き去りにされた。共産党軍の捕虜となって、朝鮮戦争への従軍や文化大革命での迫害など辛酸をなめ、大半が命を落としている。九死に一生を得て帰還し、台湾の歴史の闇に埋もれてしまった少数の生き残り兵たちはいま、陳水扁総統に対し今年十月の「無名戦士」慰霊祭への出席と元「日本兵」たちへの理解を求めている。(中●、河崎真澄、写真も)

 台北から列車で一時間ほどの桃園県中●市に住む陳増昌氏(八二)が、五十一年ぶりに台湾の土を踏んだのは一九九三年のことだった。十七歳で日本軍に志願し、防疫担当の軍医補佐として三九年に日本の支配下にあった海南島海口陸軍病院に配属された。三年後に台湾に一時戻って結婚し、妻と再び海南島に渡った。

 陳氏はたどたどしい日本語で、「昭和二十(一九四五)年の終戦が自分と家族の運命をすっかり変えた」と話した。日本兵であっても台湾籍の場合は内地復員は認められず、国民党軍の指揮下に置かれ、今度は軍医として病院を維持する責任を負わされたからだ。四九年に台湾に撤退する船に乗ったものの国民党軍兵士に「台湾人は残れ」と海に突き落とされた。

 陳氏といっしょに海南島に放置された台湾出身兵は約二千人。翌年、接収に来た共産党軍に捕まり、陳氏は今度は共産党軍で軍医として働かされることになる。だが、六六年には文化大革命が始まり、陳氏は紅衛兵に「日本兵の亡霊」「国民党の残兵」と迫害された。拷問が続いて右の手のひらが開かなくなった。

 台湾に生まれた自分の運命をのろった陳氏は何度も自殺を考えたが、「日本の精神教育を受けた自負が絶望に勝った」。八七年に国民党政権がようやく戒厳令を解除し、中国大陸出身の元国民党兵士たちの故郷訪問が認められたため、陳氏など中国大陸に残された台湾出身の「国民党元兵士」の帰郷にも道が開け、十一年前に帰郷できた。

 しかし、陳氏のように台湾に生きて戻れたのはほんの一握りだった。

 台湾出身兵救済に奔走する許昭栄氏(七七)によると、日本の敗戦後に国民党軍が台湾や海南島などで半ば強制徴発した台湾青年は約一万五千人。このうち約一万二千人が国民党軍兵士として「国共内戦」に、あるいは共産党軍に捕まり「朝鮮戦争」(一九五〇−五三年)に送られて戦死した。

 さらに千人以上が文革前後に死亡したと許氏は推計する。四九年の撤退時を含め台湾に戻れたのは数百人で、千人以上が今も中国大陸のどこかで過去を隠して暮らしている。

 許氏も四三年に、海軍特別志願兵として「日本兵」となり、艦艇整備の技術を身に付けた。海軍の技術員が大幅に不足していた国民党軍は台湾占拠後に旧日本兵だった台湾青年を脅迫まがいの手口で自軍に入隊させた。許氏は逃げる道を失って四七年に海軍に配属。国民党軍が保有していた日本からの賠償艦三十四隻の保守も運用も実は台湾出身兵が行っていた。

 四九年の台湾撤退で海軍にいた台湾出身兵約五百人が台湾に戻り、その中に許氏もいた。だが、許氏もその後、さしたる理由もなく政治犯として十年間、獄につながれて国民党政権の圧迫を受けたが、八九年に政治難民としてカナダに亡命。中国大陸に残された台湾出身兵の支援や、遺骨の捜索をこつこつと始めた。

 許氏によると、国民党政権は八七年の戒厳令解除までは台湾出身兵の行方を捜すことはおろか台湾出身兵の存在すら認めようとせず、家族も口をつぐむほかなかった。

 許氏は、国民党軍を最もよく知る国防部(国防省に相当)など台湾当局に支援を訴えたものの、中国大陸での生存者捜索は中台関係に阻まれて進まず、その状況は四年前に民主進歩党の陳政権が誕生してからも変わらなかった。陳氏のような帰還者も国民党軍退役兵「栄民」と同等の待遇は得られず、生活の苦しさは中国大陸に残留していたころと同じだという。

 人権問題に詳しい歴史研究家の曽欽栄氏は「台湾出身兵を救うことにすら消極的で住民の人権を守れないという事実は台湾が国家として正常でないことを証明している」と手厳しく批判する。

 許氏は十月中旬に高雄市で陳氏ら元兵士とともに「無名戦士」の慰霊祭を開く予定。「三軍の長の陳総統に出席してもらい、台湾人すら知らされていない中国大陸の台湾出身兵の問題を、日本をはじめ世界の人に理解してもらいたい」と、許氏は話す。帰還兵の高齢化も進み、「慰霊祭をわれわれが行うのは今回が最後だ」(許氏)という。

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 国共内戦 中国大陸を舞台に中国国民党と中国共産党の軍隊が政権をめぐり演じた内戦。日中戦争終了後の1945年10月、両党首脳は重慶会談で平和的な国家統一を目指す双十協定を結んだが、46年6月に協定が破れ戦闘状態に陥った。米国の軍事支援を受けた国民党軍も47年半ばから劣勢となり、49年10月には共産党が北京に中央政権の樹立を宣言。国民党政権は同年末に台湾へ移り、中台は分断された。45年から国民党政権の施政下に移されていた台湾では、兵員の大陸向け徴用や物資の徴発が行われた。海南島のほか大陸沿岸の島々での戦闘は50年代も続いた。 ●=土へんに歴