ピアノ教師の部屋
ピアノレッスンについて考えてみよう。 ![]()
ピアノの弾き方について、いろいろ言われだして、もうずいぶん時間がたちます。自分なりに考え方を整理してみました。どうか、ご意見のある方は、私のほうまで、メールをください。それについてもみんなで考えていきたいと思います。
よく起こるレッスンの問題点や、解決法に自分なりに述べていきたいと思います。いくつか思いつくままに書いていきます。
| 楽譜が読めない | 2002・03・01 |
| 両手で弾けない | 2002・03・05 |
| 教材をしゃぶり尽くそう | 2002・03・08 |
| 上手にならなければ? | 2002・03・10 |
| 教材の目的 | 2002・03・15 |
| いろいろな音楽を聴こう | 2002・03・20 |
| 譜読みのときにこそ | 2002・03・23 |
| 恐ろしいこと | 2002・03・25 |
| なんでできないの? | 2002・03・31 |
| 結果と原因 | 2002・03・31 |
| どのように生徒の演奏を聴いているのか? | 2002・04・06 |
| 自分の弾いている曲のこと、知っていますか? | 2002・04・28 |
| ピアノの先生必見・結果だけを言っていませんか? | 2002・05・08 |
| 大問題!やはり必見! | 2002・05・28 |
| モーツァルトはお友達 | 2002・06・01 |
| 音大生の皆さん図書館が使えますか? | 2002・06・17 |
| 仕上げになってうまくいかない!! | 2002・07・22 |
| これでいいのか?バッハのレッスン! | 2002・08・14 |
| 音大生よ!もっとプロとなれ!! | 2002・10・01 |
| レッスンでよくあること・動きを固めてしまう | 2002・10・26 |
| ブルグミュラーとショパン | 2002・11・01 |
| よけいな動き・について | 2002・11・27 |
| ピアノ練習のヒント「逆のことも視野に入れて練習しよう」 | 2003・01・06 |
| 子供のうちはいいけれど・・・ | 2003・01・18 |
| まちがいとは?・・・・ | 2003・01・25 |
| 先生も練習しないと・・・ | 2003・02・10 |
| 指使い・・・ |
2003・02・22 |
| 譜読み・・本を読むようにじっくりと | 2003・03・01 |
| 大人のピアノ・発表会をしました | 2003・03・20 |
| いま弾いたのはどうでしたか? | 2003・04・19 |
| コンクール | 2003・05・17 |
| エチュード | 2003・06・16 |
| コンクール(2) | 2003・08・13 |
| 自分で楽譜を読む大切さ | 2003・10・01 |
| 譜読みに関する考察・ぎなた読み | 2008・04・29 |
| 子供のコンクール | 2008・07・02 |
| 2つの方法「やる方法」、もう一つは「やらせる方法」 | 2008・07・27 |
| 模倣について、重大なこと | 2011・12・30 |
楽譜が読めない
私たち、ピアノ教師は、「運良く」楽譜が読めるようになった人たちなのです。まずこれを私たちは忘れてはいけないと思います。
楽譜を見てピアノを弾くというのは、一見当たり前ですが、ものすごいたくさんのことを一度にやっていることに注目しなければならないと思います。楽譜には、音の高さ、音の長さ、拍子、調などがいっぺんにかかれており、これらを一度に指などの運動に置き換えていかなければならない複雑な作業なのです。幼児にとってそんなに簡単なものではありません。
大切なことは、あせらずにじっくりすることかな、と思います。無理に先へ進んだり、あるいは、答えだけ教えたりすると、楽譜を自分で読まずに先へ進んでしまう。生徒には、やさしい楽譜でいいから、自分で読んで、組み立てていくことをさせる。また、そのための材料を提供する。そのように考えていけばいいのかな、と思います。
子供が文章を読むとき、最初は、「む・か・・・・し・む・・か・し・・・あ・る・と・こ・ろ・に・お・じ・・・い・・」などと一字一字読んでいきます。しかしそれでは意味が見えてきません。そこで、単語ごとにまとめていくと、はじめて意味が見えてきます。「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。」
さてそこで、「ソ・・・ミミ・・・・・ファ・・・・レ・・・レ・・・・ド・・・レ・・・ミファ・・・ソ・・」という弾きかたは、一字一字を発音に置き換えているのに過ぎない、ということです。つまり意味として認識されていない読み方なのです。「ソミミーファレレードレミファソソソ・」となって初めて音楽の意味として捕らえることができると思います。複雑なものを無理にやらなくてもいいから、この点にいつも注意を配る必要だと思います。
両手で弾けない
片手づつの練習が終わり、さて両手。なかなかうまくいかないものです。片手ができれば、両手もできるほど、ピアノは簡単ではないようです。そこで、方法を考えてみます。
片手⇒両手の練習の間に、ワンクッション置く方法があると思います。たとえば
と を合わせる前に や を練習してみるのはどうでしょうか。 これらのことは、生徒の理解力などに応じて、教師が提案できると思います。また、慣れれば、生徒自身に考えさせてやらせることもできると思います。そうすれば、しめたもの、自分で難しい楽譜も、考えて読むことができるようになると思います。
教材をしゃぶり尽くそう
ちょっと変なタイトルだけど、生徒が練習してきた曲を、「よく弾けました。◎」だけで終わりにしてないかなあ〜・・・と考えることがあります。たとえば、調を変えて弾かせるとか、一オクターブ上げたり下げたりして楽譜を書くとか、リズム変奏するとか、悲しい感じ・楽しい感じ・重い感じなど、いろいろな性格で弾かせるとか、いくらでもあると思います。子供によっては「一オクターブ下げて象さんみたいに弾きなさい」とか、「ニオクターブ上げて小鳥さんみたいに弾きなさい」とか、先生の提示の仕方もいろいろあると思います。
これらのことをさせることによって、生徒が楽譜を本当に読めているか、リズム感があるか、いろいろなキャラクターを意識して表現できるかなど、さまざまな面が見えてくると思います。上手にならなければ?
ピアノのレッスンをしてて時々思うのは、どこまで上達すればいいのか?ということです。どのようなことでもそうですが、道を極めれば、きりがない。ある程度上達すれば、そこで楽しめればいいと思うのが、普通の人だと思います。子供も例外ではないと思います。
この子は、ここまで弾けて楽しんでいるだろうか、そのような視点が必要だと思います。
そうすると、専門的にするのと、そうでないのとおのずと違ってきます。私は音大で教えていることもあり、そのけじめがあまり(ほとんど)なされていないことに驚くことがしばしばあります。教材の目的
たとえば、バイエルに対して批判されてから、もう結構な日時がたちます。その中で見落とされていたのが、バイエルの教本、編纂の目的なのです。序文をよく読んでみると、先生に習うようになる前のピアノの教本であることがわかります。バイエル批判の前に、この序文をよく読んで、その目的にふさわしいかどうか、もう一度考え直すこと。これは踏まえておかなければいけないことだと思います。(その上で、私はバイエルはあまりよくない点が多い教材だと思います)
ハノンとバーナムは、まったく目的が違う教材だと思います。まず、ハノンは、テクニックがある程度わかった人の、指慣らしのための、あるいは、技術維持のための本であり、バーナムは、これからさまざまなテクニックや、ひきかた覚えていくための曲集です。これらのことを踏まえ、われわれ教師は、生徒の状態や進度、理解力に応じて、ふさわしい曲を与えて展開していかなければいけないと思います。ただ、この曲集がいい、この曲集は悪いというだけでなく、展開まで考えて教材を考えていきたいと思っています。いろいろな音楽を聴こう
ピアノの練習も、なんとなく飽きちゃったら、ピアノ名曲集でも聴いてみたらいかがでしょうか。ブルグミュラーや、チェルニーだけの世界から、バッハ・ショパン・シューベルト・ベートーヴェン・ドビュッシー・リストなどの世界へ、よく聴いているうちに、自分でも弾けそうな気になるかも。そうしたらしめたもの。きっとあなたのピアノのタッチは変わっているはずです。ピアノだけじゃなく、バッハのオルガン曲、モーツァルトのディベルティメント(喜遊曲)や、交響曲、ベートーヴェンの室内楽曲、交響曲、シューベルトの歌曲、まだまだたくさんありすぎて、ここには書ききれないです。そんな曲をたくさん聴いて、きっとピアノの世界も違って見えてきます。
ピアノの先生も、絶えずそのような多くの音楽に耳を傾け、生徒たちに勧めていければいいと思います。譜読みのときにこそ
PTNAなど、多くのコンクールの課題曲が発表になりました。ここで、重要なのは、譜読みの大切さだと思います。譜読みとは、音名を読むだけでなく、同時にその音がフレーズやハーモニーの中で、どのように響けばいいのかなど、を読み取る作業です。ただ音名を読むのでなく、響きの移り変わりや、音楽全体の流れなどもともに読み取らなければならないと思います。
もし、音名だけを読むなら、非音楽的な音の羅列に耳が慣らされ、手や体も、非音楽的に弾くための動きを覚えてしまいます。ある程度非音楽的なことになじんでから、「音楽的に弾け」などといわれても、もう遅いからだも耳も慣れきってしまっています。そこで、ただやたらと無駄にからだをゆすって、それでも音に出てこないのでもっとゆすってなどの悪循環になってしまいます。
譜読みのときに、最後にどうなるかよく考えて、ゆっくり丁寧に、音楽的なことに耳を傾けながら練習することが必要です。恐ろしいこと 努力が報われない社会
今、僕がもっとも心配しているのは、社会に蔓延する「やる気のなさ」のことです。不景気になってデフレが続していく。すると努力して知識を増やしたり、自己の能力にみがきをかけても、それを生かす場所がなくなる。すると余計に学習意欲が低下していく。自分のまわりでもそのようなことが起こるのではないか(起こってしまっているのではないか)と心配しています。
僕は、音楽大学という、音楽の専門家を養成する機関で、週何日か教えています。しかし、卒業生のうち音楽を生かして収入を得ているのは、ほんの一部の人です。もちろんいわゆる一般大学のなかで、大学で勉強したことを社会でそのまま生かす人は、ほんの一部でしょう。しかし、専門性の強い音楽大学の卒業生が、その学習の努力が報われない状況になった時、音大生の学習意欲は、低下の一途をたどるでしょう。どうか、音大生のひたむきな努力が報われる社会になってほしい。強く願う今日このごろです。何でできないの?
ピアノのレッスンで、先生は「なんでできないの」って、ついつい言ってしまいます。しかしそこでピアノの先生がよく考えなければいけないのは、何でできないかの理由です。たとえば、テンポやリズムがよく取れない、よく歌えてない、なんとなくぱっとしない、そのとき、いろいろな要素に分解し、故障の原因を突き止めなければいけません。指が動かないと思っていたのが、リズムを正しく感じていなかったためだったり、歌えていなかったのが、譜読みが正しくできていなかったリということがあります。
「何でできない」かは、プロである私たち先生が突き止めなければいけません。もちろん、生徒に「何でできないか」を考えさせることは必要ですが、安易に「何でできないの」などといってはいけないと思います。結果と原因
前のことの続きなのですが、先生がレッスンの中で、「そこ、うたえていない」や、「そこ、指が回っていない」「そこ、音が違う」などということだけで、レッスンを終わらせていないか、ということです。
今ここにあげたことは、結果なのです。原因が奥のほうにあって、表面に出てきた結果なのです。医者に行って「あなた熱がありますね」「顔色が悪いですね」「ここに腫れ物がありますよ」といわれて終わりにされるようなものです。
歌えていないのは、何を聴いていないのか、何を感じていないのか、また、何かの動きが歌うのを邪魔しているのか。指が回っていないのは、指の何の動きがわかっていないのか、あるいはリズムを感じていないのか、もう片手のリズムが邪魔している(意外とこの原因多いのです。)のか。音を間違えるということは、なにか(ハーモニーや、メロディーの動きなど)に気をつけていないのでは。などと様々考えられます。
ピアノ教師はプロです。医者のように、「あなたの顔色が悪いのは、内臓が悪いので、この薬を飲めば治る」様な的確な指示ができなければ、と思っています。どのように生徒の演奏を聴いているのか?
大学などで、点数をつけていると、ふと自分が、演奏のあら捜しをしている。と思うことがあります。もっと視点を変えて、生徒は、演奏の中で何を感じ表現し、何を表現できずにいるのか、生徒は自身の演奏から、何を見出して、なにがみつけられないでいるのか。音楽を作っていく中で、この人は何をもっているのか。レッスンの場でも、試験の採点でも、そのように考えて聴いてあげたいと思います。とにかく、どのようなときにでも、もっと建設的に人の演奏を聴かなければいけない。
自分は、演奏する立場なので、どう聴かれているのか、気になることがあります。普段生徒の演奏をどのような考えで聴いているかが、自分が演奏しているとき跳ね返ってくるような気がします。
おそらくこのことを変えていかなければ、自分の演奏も、人にあら捜しをされるだけのものになるし、自分の生徒もそのような演奏の聞き方しかしなくなるでしょう。自分の演奏を聴く人もあら捜しをして終わり。そのような貧しい音楽でなく、音楽の現場が、豊かなメッセージの交換になっていくことを強く希望しています。
生徒の演奏をどう聴いているか=自分の演奏はどう聴かれているか、だと思います。このことは、もっとも大切なことだと思います。「どのように聴いているか」考え直すことが、音楽社会を良くすると信じています。
このことに関しては、どうかこちらもごらんください。自分の弾いている曲のこと、知っていますか?
自分の弾いている曲のこと(練習曲も含めて)どのぐらい知っているだろうか。作曲者名・時代・出身国・作曲者の一生など、結構怪しいこともあるかもしれないよ。
注意しなければいけないことは、「ソナチネアルバム」や、「ソナタアルバム」。ベートーヴェンの隣にクーラウや、クレメンティーが載っているので、無意識のうちに、作曲家のことを意識しないで、ただ弾いちゃう。よく、レッスンのとき「何を弾いてきましたか」と聞くと、「ソナタアルバムの何番です。」って答える。じゃあ誰のソナタ?と聞くと、「???」これじゃあまずい。先生も、その作曲家についてよく調べておこう。
ツェルニーやハノンだってそのそれぞれの時代のピアノに対する要求があって出てきたものだと思うのです。そのようなことを知らずに教材を与えることはできないと思う。もっとよく勉強しなきゃ。ピアノの先生必見・レッスンで結果だけを言っていませんか?
たとえば、「そこ、弾けてない」「そこ、間違えている」「そこ、歌っていない」だけのレッスンをしてないでしょうか。仮に「そこ、弾けるようにしておいて」「そこの間違い、なおしといて」「そこ、歌って弾いて」でも同じこと。医者に行って「あなたは頭が痛いのですね」で終わりにされているようなものです。
ピアノの先生は、プロなのだから、「生徒がなぜ、そこを弾けないのか、間違えるのか、歌えないのか」を、把握しないといけないと思います。そこが弾けないのも、指使いが悪いのか、手の動きが定まらないのか、リズムをうまく感じていないのか、様々な原因があります。音間違いだって、そのまちがいを許してしまう聴き方があるから、間違えて弾いてしまう。では、その間違いを許してしまう聴き方は、ハーモニー感なのか、リズム感なのか、拍子感なのか、いろいろあるはずです。歌えていないのにしても、メロディーの山がわからないからか、ハーモニーの変化についていけないのか、なぜなのか。それらの原因を、ピアノの先生は、レッスンで把握してますか?
「そこ、弾けてない」「そこ、間違えている」「そこ、歌っていない」というのは、結果です。原因を見通すのがプロだと思います。大問題!
音大でレッスンしていて時々思うのですが、作曲家や、音楽史の知識に乏しい生徒が多いです。よく、音大の学生は自分の楽器のことしか知らない、といいますが、自分の楽器についてもよく知らない人がけっこういます。
実際に、モーツァルトのクラリネット協奏曲を知らないクラリネット科の学生とか、シューマンや、ブラームスのリートの存在を知らない声楽科の学生とか、今世紀(当時20世紀)の作曲家を一人もあげられない作曲家の学生とか。もちろん中には、大変詳しいよく勉強している人もいますが、・・・・
このようなことはしばし、他のホームページでも問題にされているようです。どうかご参考下さい(やまちゃん=独り言コーナー=こんな音大生が:音楽家の希望と悩み=音楽史について リンクはこちらへ)
さて、そこで嘆くのは簡単なのですが、ひとつ視点を変えてみては、と思います。たとえば私たち普通のピアノ教師が、普段のレッスンの中で、生徒たちに音楽史の世界に目を向けるようにしているかどうかです。
ピアノを弾く、歌を歌う、フルートを吹く、それらのことは、行為である以前に、ひとつの文化なわけです。バッハやモーツァルト、ベートーヴェンといった大作曲家ばかりでなく、多くの無名の音楽家、演奏家、楽器製作者、また、それらを取り巻く支援者や、市井の聴衆によって育まれてきた文化です。それを忘れ、指を早く動かすことだけや、声を出すことだけに夢中になって、なにかそれって間違えていませんか。
生徒に、ちょっとしたきっかけを与えるだけでいいと思うのです。町で演奏会があったら「いってごらん」とか、レッスンの中で音楽鑑賞をするとか、CDを貸してあげるとか、先生が演奏して聴かせてあげるとか。発表会で、曲に興味を持たせるために解説するとか。夏休みの読書で「モーツァルトの伝記を読んでごらん」とか。ほんのちょっとのこと、できるときにするだけでもいいと思います。
とにかく、このようなことが普通になれば、育ってきた音大生もまったく違ってくると思います。また、趣味で普通にピアノを習ったりヴァイオリンを習ったりすることも、豊かになると思います。これに関する皆さんのご意見ご感想をお待ちしています。モーツァルトはお友達
たいしたことではないかもしれないけど、ある日小学3年の女の子をレッスンしていたときのことです。始めてモーツァルトのメヌエットを弾いてきました。
僕「モーツァルトってどんな人?」
するとその子は、そのメヌエット一曲の印象から、今僕たちがよく知っているモーツァルト像を言い当てていました。
僕「モーツァルトって、あなたのおともだちだよ」
生徒「何で?」
僕「だってあなたはモーツァルトの曲を弾いてあげているじゃないの。」
でまかせでいったひとことでしたが(!!)よく考えたら、とても大切なこと。作曲家は、僕たちが演奏するために多くの曲を残してくれた。僕たちのお友達なのです。お友達の気持ちをわかってあげると、きっと演奏も違ってくる。もう一度、そのような原点に返ってみたいと思います。音大生の皆さん図書館が使えますか?
音大でレッスンをして気がついたのですが、どうやら音大生で、大学の図書館を有効利用している人が少ないようです。
音大に限らず、大学の講義で先生が話すことは、その先生の知識のほんのわずかな一部です。しかし、図書館には書物という形で、無尽蔵の情報が詰まっているはずです。また、音大には、オペラのビデオや、CDといった視聴覚の資料も多数あります。
このホームページを見ている音大生は、明日にでもすぐに図書館へ行って、何でもいいから自分の気になる作曲家の楽譜や、オペラのビデオ、CDなど、しらべてみましょう。出てくる書物がもし、違ってたら違ってたでいいのです。もう一度探し出してみましょう。カードの見方がわからなかったら、係りの人に質問すればいいのです。こうなったら図書館の情報はあなたのもの、そこから無尽蔵の情報が引き出せるはずです。
(一般の方が、音楽大学などで図書館を利用される場合は、大学に直接お問い合わせください)仕上げになってうまくいかない!!
大学の先生なぞをやっていることもあって、いろいろな先生の生徒さんのレッスンをすることがあります。そこで、「本番直前なので、仕上げがうまくいかないのでレッスンしてほしい」ということがよくあります。
たいていの場合、仕上げがうまくいかないのは、譜読みという最初の段階で、間違った考え方をとっているからです。このようなときに、小手先の方法によって直すのは、かえって混乱を招くだけなのですが・・・
もっと、[正しい譜読みの方法]について、研究し実践していくことが必要です。これについては、発言の欄を設けようと思っています。
少なくても、最初から最後まで左右を別々に弾いて、音を先に読んで、あとからフレーズを考え表情を考える。最後に音色を考える、ペダルはその後、などというやり方は、絶対に間違っていると思います。というのは、音だけを並べている間に、頭のなかから音楽が逃げていって、手も、非音楽的なタッチに慣れていきます。耳も手も非音楽的な響きになれたところで、フレーズだ、ペダルだ、タッチだといったところで、手遅れなのですが・・・・・・これでいいのか?バッハのレッスン!
ピアノをある程度本格的に進めていくと、バッハの小さなプレリュードやインベンションを弾くことになります。
よく、バッハのレッスンで、先生に「テーマを出しなさい」しか言われていないということを聞きます。
確かに、インベンションなどで、テーマをはっきり認識することは大変重要です。しかし、それだけではなく、テーマはたいていの場合いくつかで歌い継いでいます。
たとえば、上声で提示されたテーマを下声が引き継ぎ、それをまたひきつぎながら転調し、ゼクエンツを経てカデンツ(終止形)へと向かっています。またテーマを歌い継ぐ中で、対旋律や、副旋律、数々のモティーフが、テーマにはっきりと絡んでいきます。インベンションの中にこのようなストーリーがあるということです。
バッハをレッスンする場合、特に先生はそのストーリーを解きほぐし、方向を見せていくことが必要だと思います。このような過程の中ではじめてバッハの音楽が本当に豊かだ、ということが見えてくると思います。
ご意見をお待ちしています。音大生よ!もっとプロとなれ!!
音大で教えていてよく考えること。そのひとつに「プロとしての意識」ということがあります。音楽をやっている人として、自分はプロフェッショナルかどうかです。
僕は、音大は、プロを養成するところと考え、次のことを生徒ができるように、と常々考えています。
1.自分で自分自身の能力を発展させることができる。
2.自分自身の問題点を正確に見つけ、問題解決をする能力があるかどうか。
この2点です。この2つができて、はじめてプロフェッショナルな活動ができると思います。
ピアノの実技でいえば、今どのくらい弾けるか、はあまり問題にならないと思います。それより、これから見てくる曲を、どうやって自分自身のものとするか、また、様々な問題点があったとき、自分の力でどうやって解決するか。さらに発展して、自分は今何をやれば自分を発展させていけるか、そのようなことが見えてくること。このようなことがわかってはじめて、卒業して一人歩きができるようになると思います。別に、今器用に弾けなくたっていいから、このような意識を普段から強く持ってほしいな、と思います。
これらのことができれば、少しでも次の世代に何かを伝えていくことができるし、少しでも新たなことを生み出せると思います。レッスンでよくあること・動きを固めてしまう
ピアノのレッスンでよくあることですが、動きを固めるようなことを言ってしまうことがあると思います。「腕をふっちゃいけません」「手首を十下にふらないで」等々です。
ここで気をつけなくていけないことは、「このような言いかたは、動きを萎縮させる」ということです。教師は、このような言い方をする前に、なぜこのような動きになるかを考えなければなりません。
余分な動きをしてしまう時、原因として、「動かなければいけない箇所が、正しく動いていない」ことや、「自分の気持ちが音に出て来ないので、何かしなければ」ということで動くことが多いと思います。そこで、「何々をしてはいけません」と言うのは、動きを萎縮させるだけでなく、生徒の「やる気」をそぐことになりかねません。
そこで・・・・
1、まず、気持ちをおちつかせ、ゆっくり正しいテンポで弾かせます。
そこで、本当に動かさなくてはいけない箇所を指摘し、正しい動きをおしえます。ゆっくり落ち着いた気持ちの中で、「動かしてはだめ」では無く「動く必要が無い」ことを教えます。生徒は、同じことを自分に言い聞かせるように落ち着いて正しいテクニックで、ていねいできれいな音を聞きながら直して行きます。
2、速いパッセージの場合、少しずつ速くしていきます。
この時、あまり長く区切らない。ときには、一拍ぐらいづつのこともあります。次に続けるため、区切りの次の音まで続けると、合わせる解きにスムーズになります。またここでリズム練習を取り入れてもいいと思います。
3、つなげる。
根気よく少しづつつなげていきます。フレーズや、歌いかた、アゴーギクなどにも気をつけます。これらのことをテクニックと結びつけて考えないと、あとでとってつけたような表情になってしまいます。
1から3のことは、行きつ戻りつします。レッスンでは、教師が生徒の心も含めた状態をよく把握し、正しい導きかたをすることが必要だと想います。
よく手首が上下に動き過ぎのときは、指先が動いていないことが多い。本来指先で処理することを、手首や腕で処理してしまう為に、不自然になってしまいます。ブルグミュラーとショパン
先日、あるピアノ教室で、ブルグミュラーの「練習曲」によるコンクールが行われました。私は、I先生と二人で審査にあたりました。
小学校低学年から、中学生まで、70人もの子供たちが、それぞれのレベルにあった曲を、弾いていました。
さて、そこでちょっと2つのことが気になりました。
まず、楽譜に書いてある最も大切なこと「曲のタイトル」について。ブルグミュラーは、ロマン派の作曲家です。ピアノが大衆に普及し始めたころ、「狩」や「子供の集会」などその時代の子供たちの身の回りのことや、あこがれていることなどに想像力を伸ばし、より豊かな世界をピアノで表現できるために書かれています。そのことを、譜読みの段階から自覚し、練習を進めてきたかどうか。
もう一つは、ここでブルグミュラーを弾いているこの子達のうち、何人がショパンを弾くようになるのかな。ということです。ブルグミュラーを弾くとき、いつかはショパンを豊かに表現するのだ、ということをどこか念頭において、練習していきたいものです。ブルグミュラーを弾いているその音や歌い方は、ショパンやメンデルスゾーン、リスト、ブラームスにつながっていくだろうか。
残念ながら、僕自身は、そこではブルグミュラーからショパンにつながっていく演奏は、聴けませんでした。
子供の教則本には、様々なものがあります。その先には、過去や現代の偉大な音楽家たちの財産がなければいけないと思います。もし、そうでなければ、その教育は間違っています。このようなことをはっきり指導者が自覚するだけでも、明日のピアノ教育界は、変わっていくと思います。
よけいな動き・について=それは、一種のサインである
ピアノを弾くとき、よけいな動きをしてしまう人がいます。手首をむやみに上下に振ったり、体をゆすったり、いろいろなケースがあると思います。先生は、それに対しどのような対処をするべきか、深く考える必要があります。
すべてとはいえませんが、よけいな動きは、「何とかしなければ」のあらわれです。ちょうど、籠の中の鳥が、出口をみつけられずに、ばたばたしている状態です。
よけいな動きとセットになっているのが、「思い通りの音が出ていない」というもどかしさです。つまり、よけいな動きをしていること=「思い通りの音が出したいのだけど、出す方法がわからない。」というサインです。ここで一つ注意しなければいけないことは、「何かをしようとしている。」という、やる気の点で、いい面もあるわけです。
そこで単に、よけいな動きを「止める」ことは、出口を全部ふさぐことです。それだけでなく、「何とかしよう」というやる気もそいでしまう可能性があります。
まずは、ゆっくり弾くこと。譜読みのように弾きます。音の表情に気をつけながら、動きの出口を見つけること。音を味わいながら、自分自身を納得させること。そうしてよけいな動きを「止める」ことより、「よけいに動く必要がない」ことを体に納得させること。先生は、譜読みから生徒の「悪い癖」が「必要ない」様な上体に持っていくことを心がける。
時間がかかるし、先生の注意力も要求されますが、いい考え方だと思います。ピアノ練習のヒント「逆のことも視野に入れて練習しよう」
ピアノの練習で行き詰まること、多いと思います。そのような時、一つのヒントとして、考えていることがあります。
「逆のことを考える」ということです。たとえば、
1.左手を弾いているとき右手のことを考える。
2.ゆっくり弾いているとき、速く弾くことを考える。
3.レガートを弾いているとき、スタッカートで弾いた場合を考える。
これらのこと一つ一つ理由があります。
1.について
片手ずつの練習のとき、もう片手とどのように合うか考えないと、ずれが生じます。また、その片手がその場で担っている役割(伴奏なのか、メロディーなのか、オブリガートなのかフーガの応答なのか)を忘れてしまいます。
左手だけを練習するとき、右手がそこにどのように入るのか、考えながら練習を進めるべきです。
2.について
速い曲をゆっくり練習することは、必ず必要な過程だと思います。しかし、それで忘れてはいけないのは、その「ゆっくりの弾き方」が、「テンポを速めても通用するかどうか」です。この点を無視すると、「ゆっくりの練習」は、いたずらに「練習のための練習」になるだけです。「ゆっくりだらだら」弾くことは、「速くぐちゃぐちゃに弾く」ことにしかつながりません。
具体的には「テンポを正確に」「タッチをコンパクトに正確に」「打鍵だけでなく、離鍵も正確に」などが考えられます。
ゆっくりの練習の中で、1拍や2拍を取り出し、速く弾いてみて、ゆっくりの練習が本当に役に立っているか確かめることも必要だと思います。
3.について
レガートのときに、音がベタつくことがよくあります。そのとき、スタッカートで離鍵のタイミングを指に覚えこませることが考えられます。この場合、手首のスタッカートでは、フレーズが切れてしまうので、手首や腕は、レガートと同ジ動きで、指の細かい動きで、スタッカートで日練習することが考えられます。
また、スタッカートの連続のパッセージで、腕や手首をレガートの動きにして、指の細かい動きでスタッカートにすることが考えられます。この場合、一度レガートで弾いてみて、腕や手首の動きを確認すると言いいと思います。子供のうちはいいけれど・・・
子供のうちのピアノ練習は個人差は多いのですが、たとえば何も考えずに10回通せば弾けるようになったりします。中にはすぐにできる子、苦労する子など様々です。
子供のうちに、ただ何回か通せばできるようになる曲ばかりやっていると、進んでいくうちに必ず落とし穴があります。
たとえば、バッハのインベンションにはいったときにそれはおきます。それまで要領のいい子が、ある程度難しくなってくると、今までの「ただ何も考えずに通す」だけの練習では、絶対に2声がきちんと処理できなくなってきます。
先生も要注意。子供のころ「よく弾ける」のは、単に「要領がいい」だけのことがよくあります。それを「この子は素質がある」と、から喜びしないことだと思います。少しずつ「パートごとに練習し、はっきり音楽を耳で、指で、音で理解し組み立てる」練習の仕方を教えていかなければいけないと思います。
ブルグミュラーを「10回通して弾いて」弾けるようになる「子供」はいますが、バッハの平均率の4声のフーガを「10回通して」弾くだけで、キーシンだって弾けるようにならないと思いますよ。
つまり、いつかは「ただ通して弾く」練習方法から脱出しないと、必ず行き詰まります。
「ただ弾ける」のでなく、よりよい豊かな表現を常に求め、「聴く」ことと「考える」ことを常に生徒にも自分にも求めていきたいと考えています。4歳なら4歳なりに、それは可能なことだと思います。このようなことを普段から考え、伝えることによって、より深い音楽につながっていくのだと思います。
まちがいとは?・・・・
ピアノのレッスンで、僕があまり、というか絶対に言いたくないことの一つが、
「そこの音違うでしょう」
なぜなら、
1.「そこの音」を間違える前に、注意していなければいけない。間違える音に来てしまってからでは遅い
2.「そこの音を間違える」のは、間違えるだけの理由がある。
この2つを無視して、怒ったって無駄です。
1に関しては、そこの音を間違えないのには、どこの時点で気をつけるか指摘する。1拍前なのか3小節前なのか、曲の出だしなのか。
2に関しては、正しい音を弾いたときの響きを味あわせ、耳が、正しい響きを求めるようにする。
もう一つこのようなことも間違えだと思います。
本を朗読するとき、文章の抑揚や、句読点は正しく読まれないと、間違えと同じです。また、楽しい言葉や悲しい言葉をそれらしく読まないと、正しく伝わりません。
この「正しく伝わらない」=「間違い」であるのではないでしょうか。
これを、音楽に当てはめてみるとよくお分かりいただけると思います。正しいフレージングや、表情記号、曲のタイトルなどは、どのような気持ち、感情を表すのか、また、それが正しく音に反映しているか。
ピアノ教師は、それを聞くことを怠らないように、と自分に言い聞かせる今日この頃です。
先生も練習しないと・・・
ピアノの先生は、自分で練習しているのだろうか。よくこのことは考えます。
先生も練習しながら、そこでおきてくる様々な音楽的、技術的問題を解決することによってはじめて、生徒に助言ができるのだと思います。逆に、先生が練習しなくなると、生徒に「不可能な方法」を押し付けたり、「あなたは何々が、できてない」というような結果だけを生徒に言うことになったりします。
前も述べたように、ピアノの「プロとしての先生」は、生徒がなぜそのように弾くのか、を正確に把握し、正しい方法へと導かなければなりません。それには、自分が絶えず、「演奏する」ということに磨きをかけないと、「演奏をする」事に関して何もいえなくなると思います。
自身の経験や苦労は、必ずいいアドヴァイスとして、生徒に伝わっていきます。ただ言いっぱなしの先生でなく、責任を持った指導者でありたいと、日々考えています。指使い・・・
指使いを守る習慣を身に付けるのは、本当に大変です。
人間の指は片手に5本、両手に10本、オクターブは8音、当然足りないわけです。
なめらかにオクターブを弾くのには、どうしても指使いを覚えなければならない。
これをきちんとするかどうかは、練習する本人がどれだけ「いい演奏をしたい」という気持ちを持っているかだと思います。
指使いを「頭で考えながら」スムーズな演奏をするのは、ほぼ不可能でしょう。そうなると当然指使いは「指が覚える」まで練習するのが本当だと思います。頭で1.2.3.1.2.3.4.と覚えていても、使えません。
「考えなくても正しい指使いになる」まで、練習するかどうかは、練習する本人が、スムーズに弾けることが「必要だ」と感じること、「身に付く」までの根気を持っていること。などの条件が必要だと思います。譜読み・・本を読むようにじっくりと
譜読みの仕方について、僕はレッスンではいつも、「本を読むのと同じだ」といっています。
本を読むとき、意味がわからずも字だけ追ってることがないように、楽譜を読むとき一つ一つ響きを確かめて、納得しながら進むこと。これが大切です。
今はとりあえず音だけ読んでおいて、あとから響きを確かめたり、フレージングをつくったりするやり方は、意味なく文字を読んで(あ、とか い、とか)それを繰り返して後からつなげるのとおなじです。
最初に、響きもフレージングも指使いも正しく読み込む。そうすると、それから後の練習がすべて正しくされることになります。自分の耳に、正しい日本語(英語でもいっしょだけど)をゆっくり読み聞かすように、自分の耳に正しい響き、正しいフレージングを読み聞かす。自分の手に正しい動き、正しい指使いを読み聞かす。そのような譜読みができれば、よりよい仕上がりになります。
以前も書いたと思いますが、譜読みの失敗は、最後ま尾を引き、きちんと仕上がらなくなります。このようなことは「いますぐ」決断して改善することが大切だと思います。大人のピアノ・発表会をしました
先日、大人の発表会をしました。子供のころ、ある程度ピアノをやっていて、もう一度弾けるようになりたいという人たちです。
モーツァルトのソナタや、ショパンのノークターン、マズルカ、バッハのフランス組曲など。このぐらい弾ければ楽しいと思います。
趣味として、ピアノを弾くことがもっと広がっていけばいいと思います。
子供のころ習っていたのとは全然違う「何か」がそこにはありました。
「昔習っていたから」「やったこともないけどはじめられるだろうか」など、いろいろあると思いますが、「ピアノが趣味」というのも、いい人生だと思います。もし、お宅に誰も弾いていないピアノがあったら、はじめてみてもいいかも。
私たちも協力します。こちらもどうぞご覧ください。今弾いたのはどうでしたか?
僕は、レッスンでこの問いかけを多くするように心がけています。幼稚園の生徒にも、ピアノの先生にも、言い方は違うかもしれませんが、このことをと問い掛けるようにしています。
この問いかけによっていくつかのことが浮かび上がっています。
生徒が自分の演奏の何かに気付き、何かに気付いていないのか。
例えば、生徒のリズムがゆがんだ演奏に対して、生徒自身が、質問に対し、リズムのゆがみに言及しなかったら、生徒は自分で弾いてて、リズムのゆがみに気がついていないのかもしれません。
また普段練習のとき、何がうまくいかないと思っているのか、そこで、どのような解決方法を探し、どのような点がまだ問題として残っているか。
この問いかけは、生徒の《練習での自覚》を促すものだと思います。生徒は、旦先生の言うことを考えずにそのままやってくる。というのでは、生徒の音楽が自立していきません。
ピアノのレッスンでの、「先生と生徒」は、「強制と服従」の関係ではないからです。先生が言ったことを、考えずに反復する。のでなく、自分の耳で聴き納得したものを自分のものにしていくためだと思います。。
コンクール
コンクールの是非論が論議されて、久しいと思います。全体のレベルを上げる反面、競争過多になり、音楽的な弊害もいろいろなところに生み出しています。
これは、私達が絶えず冷静に音楽を見ていく姿勢を続けるしかないな、と思います。
競争過多になった結果、多くの演奏から「文化の香り」がなくなっています。
ケンプのようなドイツ伝統的な演奏や、コルトーのような、フランス風の上品な香る演奏など。
グローバル化によって仕方がないかもしれないけど、どこか、コンクールがある面を失わせたのかな、とも思います。
しかし一方、優れた才能が出てきて、フレッシュな印象を与えていることも、確かです。
コンクールは、いい面も多くあります。しかし、受ける人、受けさせす先生、聴衆、審査員が冷静に正しい判断をしていかないと、よくないことも出てくると思います。エチュード
先日、古今東西音楽考で、「エチュードの美学」網干毅・で、エチュードの演奏、コメントをしてきました。
ピアノ教師は時に考えずに、ツェルニーやハノンといったエチュードをさせてます。また、ただ棒読みのような、インベンションをさせています。
本当は、こういった練習曲にもはっきりした目的があるはずです。また、理解しやすいような譜読みや練習の仕方があるはずです。
私たち教師は、「やってらっしゃい」でほっぽらかしにせずに、それぞれのエチュードの目的や構造に添った譜読みや練習の仕方を生徒に提示すべきだと思います。コンクール(2)
私の住んでいる兵庫県では、神戸新聞のコンクール、また、全国的にPTNAのコンクール。今この時期がシーズンのようです。
予選が通ったり、通らなかったりいろいろですが、コンクールの点数に出てこない「実力」があるのも事実です。コンクールに通った人と通らなかった人と、実力がほとんど変わらないこともしばしばあります。やはり、コンクールはその人の能力の一面しか見ていないような気がします。
特に子どものうちは、コンクールのためだけに必死になりすぎるのは、どうかと思います。もちろんコンクールを通して、能力が伸ばされていくこともありますが、ピアノ教師や保護者の方々も、もっとその点に気をつけるべきです。自分で楽譜を読む大切さ
時々気をつけてみているのですが、生徒が自分で楽譜を読んでいるかどうか問題になります。生徒に譜読みの間違いを注意するときに、自分で見つけさせること。正しい響きに気がつくことをしつこいほど注意していく必要があると思います。
往々にして生徒が、「先生が正しい答えを言うことを待つ」とか「いろいろやってみて先生の顔色をうかがう」などということがありますが、「自分で楽譜を読んで、納得して弾く」ほうへは育っていきません。
「演奏」とは、あくまで「自分で読んで、納得したものを音にしていく」ことです。「子どもだから
」というのは、理由にならないと思うし、子どもは子どもなりに、響きに気がついて納得することができると思います。譜読みに関する考察・ぎなた読み
このことはレッスンでいつでも言っていますし、HPでも以前に書いたことがあります。もう一度はっきりさせたいのでブログに書かせていただきます。
タイトルにある「ぎなた読み」は、正しい?日本語ではないので、知らなくても良い単語です。(ウィキペディアの例文には公序良俗に反すると思われる例文もあるので注意)
「弁慶が、なぎなたを…」というところを「弁慶がな、ぎなたを」と言ってしまったことにあります。
ところで、初めての曲を見るとき、このぎなた読みをしていませんか。僕はよくレッスンでまだ見たことのない新しい曲の数小節を、ゆっくり弾かせることがあります。その時、生徒を観察していると、音だけあっていればOK、リズムやフレージングに無頓着であることが多いです。たとえば
べんけいがな ぎなたを・・・
べんけ いがな ぎなたを・・・
べん けいがなぎ なたを・・・
べんけいがなぎ なたを・・・・
というように繰り返したりします。
これで頭に入るわけがないし、きちんと読めるようになれるはずもないわけです。
よく、ピアノの先生は「譜読みは自分の責任、おうちでやってらっしゃい」ということになり、次の週のレッスンでたとえば上の4番を弾いたとしても、音があっているということで、〇と考えます。「べんけいがな ぐなたを」といったところで、「ぐ」の文字に赤丸を付けるといった感じです。
このことに大変疑問を感じます。生徒が「弁慶が なぎなたを」という正しい文節を読み取ることを、先生は責任を持って指導するべきではないでしょうか?
少なくとも、日本語で文節をでたらめに話されると、ものすごくおかしな感じがするとおもいます。たとえばある日突然、周りの人間が、すべてでたらめな文節、抑揚で日本語を話し始めたら、あなたは一日で気がくるってしまうでしょう。
そこで僕の疑問です。ピアノで文節や抑揚のおかしなもの(フレージングやカデンツのまとまりなどのおかしなもの)を一日中聴いていると、「気が狂う」ほどのことでしょうか?もしそうでないとしたら
キチンと演奏を聴いていない
このようなことに鈍感になってしまっている
もともとフレージングやカデンツに興味がない
とまあこんなことになります。
このように書いてみると、とても重要なことです。後回しにしてはいけない。後回しにするとなぜ絶対いけないかは、後日書かせていただきます。
子供のコンクール
幼時から小学生にかけては、個人差が大きいのが普通です。ピアノを弾く場合、手の大きさや身長、体格も個人によってまちまちです。また、ピアノを始めた時期もまちまちなのですし、心身ともに伸びる時期も様々ですから、それを同じ尺度で測るというのは、確かに無理があります。
そう考えると、子供のうちのコンクールの評価というのは、本当の音楽的才能が評価されているかというと、ほとんどの場合一過性のものだと思います。
ですから僕は、子供のコンクールは発達途中の目安に過ぎないと思います。今すぐに結果、みたいなやりかたは、以上の理由から、不自然だと思います。
もちろん中には小さいうちから本当の才能を発揮させる子供さんもいると思いますが、一人ひとり違います。ですから長い目で見てあげるのがその子のためになると思います。ですから、発達途中で今何が必要か、何ができるか、を考えながら聴くようにしています。
子供たちに渡される講評の中にも「続けてください」とか「また聴かせてください」「これからが楽しみです」と長い目でもって見ていただける方が多いので、これはいいことだと思っています。
あまり一回一回の出来不出来にカリカリしても意味がないと思いますが・・・2つの方法「やる方法」、もう一つは「やらせる方法」
・ピアノに限らず、教師は2つの方法をもっていると考えられます。ひとつは「やる方法(こうすればできる)」、もう一つは「やらせる方法(やりなさい、やってきなさい)」です。
・私はもっぱら「やる方法」に専念しています。なぜなら「やらせる方法」というのは、危険をはらんでいるからです。たとえば、自己実現を相手においてしまったり、相手の自由な時間を奪い取ったりすることになりかねないからです。
・もし、本当に生徒に絶対的なやる気があり、生徒と絶対的な信頼が築ければ、先生は生徒と一つの人格となってあるものを追い求めていってもいいのかもしれませんが、幸か不幸かまだそれを希望するまでの生徒が私の前には現れていません。
・もっぱら「方法の模索と伝授」ということに専念し、生徒がそれを実現するかどうかは別の問題、と思っています。
・たとえば小学生の生徒がいたとします。その子の中では ピアノ10% 勉強40% 遊び30% 家族20%だとします。ピアノ教師がそのピアノのパーセンテージをあげさせたり、学校の先生が、遊びのパーセンテージを減らさせたりするのは、許されることなのだろうか。そんなことを考えてしまいます。
・だとしたらその10%の中で出来る方法を、伝えていけばいいのかもしれません。あるいは「やる方法」はあるところでは垂れ流しの言いっぱなしなのかもしれません。
・以前、ある講座で「やる方法」について説明していったあと、「どうすればやらせることができるでしょうか?」と質問を受けました。
・あまりに正統的かもしれませんが、生徒が自分で「やることに魅力と興味をもたない」ない限り、できないことだと思っています。教師はただ、環境をできる範囲で整えるだけです。むやみに煽ったり、あるいは親の虚栄心をかきたてたりするのは、倫理上良くないことで、必ずしっぺ返しが来るように思いますが・・・
模倣について重大なこと
身近なことですが、子供のコンクールへ行くと間際までヘッドホンを付けている子供たちに出会います。まあたぶん、これから演奏する曲を聴いているのでしょう。それはそれでいいと思いますが、「自分の演奏する曲」を、「聴くありかた」について、気になってしまいました。
本当の意味で、「模倣する」というのは、心で感じて本当に納得したときに意味を持ちます。つまり模倣する前に「鑑賞」という行為があるのです。
実はこれが大切で、「模倣」以前に「音楽鑑賞」ということで完結した行為になります。非常に意味のあることです。
もし、「鑑賞」のない「模倣」であったら、それは「意味なく模倣」していることです。
自分が「本当にいい」と思ったから、何とかそれに近づきたいと思いつつ、模倣をするものでしょう。ただ、「これをまねしなさい」と言って模倣をさせられるものではないと思います。
「鑑賞」なき「模倣」は、サルまねにすぎない。もしそれを生徒に続けさせていると「音楽は鑑賞せずに模倣するもの」という頭の中の回路ができてしまいます。結果、「まねはできるけれど音楽を聴いても心から感動できない」生徒になってしまいます。
これを読む方は「まさかそんな」と思われるかもしれませんが、実際私は「音楽大学の中で、このような生徒に複数接している」ことを告白します。ということは頻繁に起こっていることなのです。
私は大変な危機感を持っています。と同時に、「一つ一つの音、和音、フレーズ、パッセージを、心で感じてから弾く」ことをレッスンの中で確かめようと思っています。
作曲家のラヴェルは、「模倣」を勧めました。これは当然、過去の偉大な音楽家たちの「音」を心で感じるように、と言っていることにほかなりません。
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