--車城--
車城外観 訪問日
所在地
遺構
主な城主
別称
2003年6月5日
北茨城市華川町大字車字下宿
土塁・井戸跡・曲輪
臼庭加賀守・車丹波守義照
群馬城・牛渕城

案内 車城は常磐線磯原駅より北西へ3.5キロ行った所にある。水田からの比高40メートル、長さ400メートルの戦国期の連郭式山城である。山頂の本丸跡には、往時の守護神であった八幡神社が祭られている。「群馬城」「牛渕城」「臼庭城」などの別称がある。
歴史 「新編常陸国誌」によると、はじめ鎌倉末期、嘉元年中(1303〜1306)、臼庭加賀守が居城した。
 後の天授年間(1375〜1381)に、岩崎二階堂氏の族である但馬守忠員および子の兵衛蔵人通忠が砥上を氏とし、車城に居して車氏も称した。康応元年(1389)作の「康応記録写」には、車氏は「多珂庄奉公衆の外様5人」の中におり、大塚氏(管股城主)や境氏(御城山城主)とともに南朝に組し、後に佐竹氏に臣従した外様であることが知られる。
 しかし車城主については、この後100年に渡り不明であり、戦国時代の文明年間になってようやく史上に現れる。
 文明17年(1485)に岩城常隆の侵略を受けて、砥上車氏は滅亡した。その後岩城常隆は、佐竹領侵略の拠点としてここを利用し、この地に弟の好間三郎隆景を置いた。隆景も車氏を称したが、その孫の車兵部大輔義秀(好間太郎左衛門)は佐竹義重に降る。
 天正11年(1583)、車兵部大輔義秀はなんらかの理由で佐竹義重に攻められ討死、この後同族の車大隅守、車丹波守義照(斯忠)が車城に入り佐竹氏側として活躍、慶長元年(1596)にいわき市神谷の座主館に移るまでここに居城した。慶長中(1596〜1614)に廃城になったという。

登り口
登り口、切り通しになっている
一の曲輪
頂上の八幡神社、本丸の地

車丹波守 上の車丹波守義照であるが、別名車猛虎と称し、勇武の名が高かった人物で知られている。しかし武勇一点張りだったらしく、赤館城主時代には民政の不味さが目立ち、佐竹氏によって解任されている。
 また先に佐竹義重によって討たれた車義秀を車丹波守の父とする説もあり、丹波守の赤館城主解任に反対し、反乱を起こしたのだという
。その後車義照は岩城氏に従って伊達政宗と戦い、また関ヶ原では佐竹氏の計らいで上杉家臣・直江兼続の本に3千石で配され、東軍の伊達政宗と再度戦った。
 猛虎は大窪久光(大窪城主)と義兄弟の間柄で、彼らと謀り佐竹の水戸城奪還の一揆を企てた。事が露見すると、猛虎らは慶長7年7月10日、三百騎にて那珂川を渡り、徳川の城兵と交戦したが敗れて捕らえられ、10月には猛虎と長子・主膳、馬場政直らは吉田台で磔刑になった。
 また伝聞によれば、猛虎の弟・善七は危機を脱して江戸に入り、姓名を変えて幕府の下僕になり、秀忠の命を狙ったが露見して捕縛された。ところが秀忠は、その志を改めて我に仕えるように幾度も諭した。善七は本心を隠して別な主君に仕えるようなことは出来ないので、殺さないのなら乞食の頭にしてくれと頼み、赦されて乞食の長になった。善七は年老いて死が近づいた時、その子を招き一書を見せて「私は昔将軍を殺そうとしたが、却って将軍より恩仁を施されてしまった。それに報いるため、万一、天下にことがあった時に備え、密かに陰で部隊を編成していた。だが、今は太平の世になり、それも不用となった。」と言い、その書を火にして燃やしたという。
蛇足 テレビでやってる「水戸黄門」の「風車弥七」はこの「車善七」から原典を得たものらしい。


--以上「茨城県の中世城郭」及び「図説北茨城市史」より--


途中の分岐点
登り途中、左が本丸。右が下り口。後が西の曲輪?へ
井戸跡
本丸東の井戸跡。土塁に囲まれる


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