第13代米沢藩主・伯爵 上杉 茂憲公
弘化元年(1844)2月28日第12代米沢藩主斉憲の長子として、米沢城に生まれた。母は鈴木清之介政與の妹、磐である。幼名を龍千代といった。弘化3年5月7日に世子と成った。安政4年(1857)11月15日に憲章と称し、万延元年(1860)2月18日には喜平次と改めた。6月18日米沢を出発し、同27日に江戸桜田邸に到着した。9月晦日、初めて将軍家茂に謁し、10月23日に殿上で元服して、従四位下に叙せられ、侍従兼式部大輔に任ぜられ、将軍家茂の一字を賜わり茂憲と改称した。

 文久元年(1861)5月に米沢に帰り、文久2年3月1日、松平摂津守義比の女、幸姫と縁組を行う。8月再び江戸に赴き、将軍家茂上洛の先駆を命じられた。12月9日、幸姫が入輿した。

 文久3年1月1日、斉憲は上洛のため米沢を出発したので、茂憲は米沢に帰った。斉憲は京都警衛の大任を菓し、10月10日に江戸に帰った。この京都在任中、8月18日の京都の変の時に、守衛が周到であったことを賞して、10月29日に幕府から鞍鐙を下賜された。翌元治元年(1864)5月1日には、従四位上に推叙された。6月29日には、幕府は斉憲の休暇請願を許さず、逆に金一万両を与えて、これまで以上の任と活躍を希望した。7月19日登営の節政事総裁になるよう請われたが、斉憲は固く辞した。

 翌慶応元年(1865)2月26日に、斉憲は足痛を理由に致仕を願い出たが、許されず、4月19日に茂憲を府下警衛の代理にした。斉憲に対しては、致仕願を留め、その代わり、屋代郷の収納高を与えた。

 慶応2年正月、斉憲は再び京都警衛を命じられたが、足痛を理由に茂憲に代理させた。茂憲は正月7日に上洛し、寺町の本満寺を旅館とし、11日には南御門の警衛を命じられた。2月3日に参内して天皇に謁見し、天杯を賜った。4月7日、京都警衛の任期が終了したが、時勢急迫の折、請われてさらに在京の任を命ぜられた。7月20日には上杉家臣にも、洛中の昼夜巡邏を命じられた。8月4日には、京都の情勢が益々不穏になってきたので、さらに家臣を京都に呼びよせた。11月18日、参内して約1年間の京都警衛の労をねぎらわれて、御剣一腰と休暇を賜った。20日京都を出発し、12月17日に米沢に帰省した。

 慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜が大政奉還を願い翌日朝廷はこれを許可した。12月9日、討幕派は王政復古の大号令を発し、摂政・関白・将軍等の官を廃し、総裁・議定・参与の三職を設置した。
西暦1844〜1919
(弘化元〜大正8)
 慶応4年1月3日には鳥羽・伏見の戦いがあり、7日には慶喜への追討令を出し、10日には慶喜以下27名の官位を奪い、旧幕領を直轄した。2月15日、東征大総督熾仁親王が進発し、3月12日には神仏分離令が出され、14日には五ヶ条の御誓文が出された。19日には奥羽鎮撫総督九条道孝が東名浜に上陸し、岩沼に総督府を置いた。29日、斉憲は会津討伐の先鋒を命じられた。

 4月22日、奥羽列藩の代表者が白石城に集り、奥羽列藩同盟を作り、その席で荘内討伐軍の解兵、並びに会津藩救済の嘆願を太政官へ建白することを議決した。29日、千坂太郎左衛門(高雅)が兵を率いて新庄の応援に出発し、5月1日に中条豊前明資を大隊頭として越後口に出発、10日には色部長門を総督として越後の新潟港へ、大隊頭江口縫殿右衛門を白川口に布陣させた。斉憲自身も兵千余人を率いて越後の下関に6月2日到着した。29日には仁和寺宮が来米したので帰城した。奥羽越列藩同盟軍と官軍との衝突が所々であり、長岡城も7月19日に再び陥落し、総督色部長門も新潟で29日に戦死した。8月1日、総督千坂高雅が命じて、全軍米沢へ引き揚げた。

 9月5日、斉憲が足痛のため、茂憲が代理として新発田に行き、歎願書を官軍に出し、北越総督親王に降伏の意を表した。11日総督府に謁し、王命を奉戴し速かにするように命じられた。茂憲は15日に帰国して、18日官軍の先鋒となって荘内討伐に向った。また一方では、総督親王の命をうけ、家来を遣わし、会津の松平容保を降伏させた。

 一方政府は、7月17日江戸を東京と改称し、9月8日に明治と改元し、一世一元制を制定した。12月7日には、陸奥・出羽を七国に分割し、奥羽越藩主を処断した。斉憲は隠居を命ぜられ、領土は4万石を厳封され、茂憲が家督を命じられた。

 明治2年(1869)正月12日、茂憲は参内して旧領安堵の恩を拝した。3月12日、浜町に於て、新邸麻布飯倉片町、白銀三葉坂両旧邸を賜り、5月27日には京都邸も、以前の通り賜った。

 6月18日、版籍を奉還し、同日藩知事に任命された。26日には侍従兼式部大輔に任じられ、従四位に叙された。7月3日に参内して天皇に謁見し、天杯を賜った。10月23日には外桜田、花房藩、中村藩上地の邸宅を賜り、替りに浜町邸を没収された。

 明治3年7月3日、米沢城を解体し、二の丸に移住するよう命じられた。8月2日には、桜田を官邸とし、麻布飯倉を私邸とし、白銀邸を没収された。明治4年1月28日に、御備籾の内、十万俵を将来の凶作予備として、士族一統への下賜した。7月14日、廃藩置県が行われ、茂憲が米沢県の県知事となり、旧藩主は東京に在住するよう申し渡された。8月7日、茂憲は『鷹山公偉蹟録』を献上し、29日に謙信・鷹山を神祭し、9月5日には金17万両余を士族に下賜した。9月9日、東京移住のため、米沢を出発。士民は沿道の両側に平伏して声を呑み別れを惜しんだという。

 明治5年1月26日、英国遊学のため横浜港を出帆、3月23日にロンドンに着き、翌年12月29日に帰朝した。随行者は千坂高雅であった。明治9年3月11日、二等辨事に任じられ、5月25日に一等辨事に任じられ、27日に宮内省第二部部長に任じられた。12月31日、同第四部部長に任じられ、明治10年12月28日に宮内省五等官に準ぜられた。

 明治14年5月18日、沖縄県令兼判事に任ぜられ、池田成章が内務省御用掛として随行し、10月26日に沖縄県権少書記官に任じられた。明治15年1月25日には茂憲が兼官を免ぜられ、池田成章が事務官判事に任ぜられた。この間、謙信、鷹山の末裔として、大いに県民のために努力したが、明治16年4月24日、沖縄県令を免ぜられ、元老院議官となった。

 明治17年7月7日、伯爵を授けられ、20年12月26日に正四位、22年5月20日に従三位、23年7月10日の伯爵選挙会で貴族院議員に当選、10月20日に錦鶏の間祗候となった。

 明治29年7月11日、南堀端町に新邸を造り、東京から移住した。明治30年7月10日には、再度貴族院議員に当選し、31年6月20日に正三位、40年7月2日に従ニ位、大正6年(1917)7月10日正ニ位、大正8年4月18日、勲二等に叙せられ、同日午後11時に死去した。76才。白銀興禅寺に葬られた。

 茂憲は、常に「自分は謙信・鷹山の末裔である。」という責任を感じ、英国で得た知識を活用し、「自分は民の父母でなければならん」と教育の振興、産業の発展に力を注ぎ、詩歌をよくし、俳諧を楽しんだ。『清風吟句集』三冊がある。

米沢市史編纂委員会「続 米澤人國記 近・現代篇」より