文武兼備の智将 直江 兼続
 永禄3年(1560)、越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生れた。父は同城主長尾政景長臣樋口惣右衛門兼豊、母は信州泉氏娘と伝えられている。

 景勝は永禄5年頃、輝虎(後の謙信)の養子となったものと思われ、その後、兼続は春日山城の景勝の近習となったので輝虎の影響もあって学問に励んだものと思われる。

 天正6年(1578)3月13日輝虎は病死し、景勝が24才でそのあとをついだ。天正9年(1581)9月1日、春日山城中で家老直江信綱と家老山崎秀仙が対談中、毛利名左衛門秀広がきて不意に山崎を切り捨てた。そこにいた信綱も驚いて刀をぬき秀広と切合い、秀広の顔面に傷をおわせたが、秀広は反撃して信綱を斬りたおした。

 信綱に子供もなかったので、景勝は名門直江家の断絶をおしみ、直江家の娘で信綱の妻「お船の方」に兼続の婿入りを命じた。兼続は、その年婿入りして直江家を継いだ。兼続はこの時から執政となり、その後、景勝の信任厚く、藩政を一身に統べた。

 天正10年(1582)3月、武田勝頼は天目山で織田信長に滅ぼされ、信長の部将森長可は更に信濃の大部分を手に入れ越後国境に迫った。同じ頃、信長の部将滝川一益も上州廐橋城をとり、更に越後魚沼郡上田への侵攻をねらっていた。越中でも、信長方の前田利家、佐々成政の勢力増大し、上杉方の越中魚津城は信長方に攻められ、同年6月3日、篭城した上杉の部将、中条越前守景泰等十余名が自刃して城は陥落した。

 この頃上杉氏は一大危機であったが幸運にも、その前日、信長は本能寺の変で明智光秀に殺されたので織田方は退陣した。翌11年(1583)2月兼続の尽力で、景勝は秀吉と和し、局面は好転した。

 即ち、天正14年(1586)兼続は景勝に従って上洛し、景勝は従四位下左近衛少将に任ぜられ、兼続も従五位下に任ぜられ、豊臣の姓を賜った。天正16年(1588)5月、景勝は兼続と共に上洛し、景勝は従三位参議に任ぜられ、兼続はこの年8月17日山城守に任ぜられた。文禄3年(1594)10月、景勝は権知中納言に昇進し、慶長2年(1597)五大老に任ぜられた。これらも兼続の力によるものと思われる。
西暦1560〜1619
(永禄3〜元和5)
 慶長3年(1598)正月、景勝は会津四郡、仙北八郡、田川遊佐、置賜、佐渡合わせて120万石を与えられた時、兼続に米沢30万石(諸説があり、知行3万石とも6万石とも言われている。)を与えるとの秀吉内命があって、諸侯の待遇を受けたと伝えられている。 

 同年8月、秀吉逝去。景勝は大坂に登り翌年会津若松に帰った。上杉領内の道や橋も悪く交通も不便で、若松城も120万石大名の居城としては小規模であったので、領内の道路や橋の普請や若松から少し離れた神指に、慶長5年(1600)2月から人夫約12万人を使用し兼続を監督として築城をはじめた。


 景勝の旧領越後にきた堀久太郎秀治は、これをきき、景勝は謀叛を企てると家康に密告した。同年4月、家康は使者をもって景勝の上洛を促した。更に家康の親近の僧、豊光寺の承兌から兼続に書状を送って景勝の上洛を促した。兼続は書状を以って道路橋などの普請や新城の必要を説明し、密告者を究明してその真偽を確かめるべきと、堂々と申し開きをした。

 しかし、家康はこれを口実とし、景勝征伐のため、慶長5年6月18日、伏見を出発、江戸で進撃方策を定め、約5万余の兵を率いて、7月24日小山に着いた。景勝も家康の進撃に備えて、白河の南、革籠原に陣し、この地で敵を粉砕しようと待っていた。

 戦機を窺っていた家康は上方で石田三成等の挙兵を聞き、8月4日、小山を出発して上方に向った。その後兼続も米沢に帰って最上義光征伐の計画をたて、同年9月約4万の兵をもって、同月13日、敵の支城(畑谷城将江口光清)を攻め落し、進んで長谷堂城(城将志村高治)を囲み、最上軍及び援軍の伊達軍と戦った。

 9月29日、若松へ上方の敗報到着し、景勝は即日、兼続に知らせ、直ちに退却を命じた。兼続は全軍を13隊に分け、鉄砲隊の援護によって、余り損害なく10月6日米沢に帰った。


 翌6年(1601)8月、景勝は家康から今迄の所領の一部、置賜、伊達、信夫合わせて30万石を与えられ、約6千の家臣と共に米沢に移った。当時米沢は戸数約800、人口約6,000といわれた町で、新町、大覚町(後の南町)、東町、柳町、大町、御免町、河田町、源悦小路、家風小路の町まちで、城の堀も一重の小規模な城下町であった。

 それ故に、移ってきた家臣は殆ど住む家もなく食物も不十分であった。大部分は掘立小屋で極めて粗末な仮住まいをした。このような苦しい生活をしながら直江兼続の指揮のもとに上下ともども約10年間苦労して、慶長14年(1609)、米沢城下町の形が出来てきた。
 先ず、城下町を松川の水害から守るため、松川上流左岸に二つの堤防をつくった。かみのものは谷地河原堤防(近年、直江堤とも)しものものは蛇川除と呼んだ。この工事の時、兼続は近くの赤崩山に登って米沢城及び松川の形勢をみて、その位置を決定した。工事中、自ら現場にでて働く藩士や領民を監督し、その労をねぎらって竣工したものである。

 城は、本丸の東の大町、柳町、御免町等を少し東へ移し、従来の本丸を中心に新たに二の丸・三の丸をつくり、西の三の丸の堀の代りに掘立川をつくり、市街地の高低を少なくして町割をした。道路は本丸を中心に、南北に通ずるものは、少し南にそびえる兜山(海抜約1199メートル)に向うようにつくったといわれ、交わる東西の道路は余り規則的ではなかった。全体的には丁字路、袋小路、かぎ形などが多く、他の城下町と似ていた。

 本丸は東西約168メートル、南北145メートル、面積約24000平方メートル、周囲の土手の外側に深さ約3.6〜5.4メートル、幅約23〜31メートルの堀をめぐらした。内に藩主の居宅、その他の建物、東南隅に謙信をまつる御堂がつくられた。東北隅及び西北隅に三階の櫓をつくり物見とした。土手の上には矢狭間や鉄砲狭間を備えていた。東の太鼓門を正門とし、大橋で二の丸の大手門に通じていた。南に菱門、北に通用門の御北門が設けられた。

 二の丸は東西約350メートル、南北約356メートル、通行の所に門が設けられた。南には御堂をまつる真言宗の寺院、西に藩の蔵、北に御廐及び作事屋、東に二の丸御殿などがつくられた。

 三の丸は東西約1051メートル、南北約1955メートル、城外との通行に十余の門が設けられた。中は上・中級家臣の居住地とした。三の丸外、北西部の町まちに下級家臣を居住させ、一部分は城下町の出入り口か、その近くに居住させた。 しかし、なお屋敷が不足であったので、更に下級家臣は城下町から2〜4キロメートル位離れて、当時、原野の多かった南原、六十在家、下花沢、上花沢、山上通町、同裏町、館山などに居住させた。この地域に住む者たちは原々奉公人または原方衆と呼ばれた。この人たちは屋敷に続いた荒地や近くの荒地を開墾することが許され、半農半士の生活をして少ない俸禄を補った。

 家臣の屋敷割は奥行約45メートルと一定していた。間口は上級の者は広く下級の者は狭かった。即ち、侍組の200石は約23.6メートル、100石増す毎に約3.6メートルを増した。中級者は約21.8メートル、下級の三扶持方から奉行同心本番まで約14.5メートル、本手明組より御台所組まで約12.9メートル、三十人段母衣より御弓組まで約10.9メートル足軽は約9.1メートルを与えられた。

 商工業者の屋敷割も奥行約45メートルと一定し、間口はいろいろあったが約5.4メートル〜10メートルが多かった。町人町の代表的なものは南町、東町、大町、柳町、立町及び粡町であった。屋敷は割合広かったので、うらは大体畑で、野菜などは殆ど自給することが出来た。同じ組みの者は大体、同一町内に居住させ、思慮ある者が選ばれて町内を世話し、幼少の時から仲良く、互いに助け合って暮らした。寺院の一部は城下に散在したが大部分は東、北、南、即ち東寺町、北寺町、南寺町に配置した。

 用水は松川の上流に御入水堰をつくり、その水を引いて城下町の大部分で使用し、西北部は鬼面川につくった帯刀堰から木場町をほって導いた水を利用した。町まちの用水路の大部分は道路の中央につくられ、両側の人びとが利用した。また鬼面川上流山地で伐採した薪材は初冬に川に流し、木場川に導いて木場町にあげて、城下の需要の大部分をみたしていた。

 防禦については更に西北の成島八幡境内、北西の徳昌寺林、北の長町林、南の熊野林、笹野観音林等に鉄砲を配置し防備するように定めていた。このような城下町建設は兼続の指揮によるものである。

 兼続は開墾、用水、植林及び農業生産にも力を入れた。用水のために李山地内で松川の水の堰止めて、南原、笹野等の用水とする猿尾堰をつくった。堰近くに今も「龍師火帝」(りょうしかてい)と刻んだ大石がある。この碑は横約2.9メートル、縦約1.8メートル、厚さ約1メートルの安山岩の自然石で「龍師火帝」とかご字で刻み、その左に「梵字及び伝燈叟髄記之」と陰刻している。これは兼続が堰をつくった時に水神及び火帝をまつり、用水不足することなく、水害のないよう祈祷したものと伝えられている。農民に作物の栽培等の諸注意を示し、農業を励ませた「四季農戒書」もある。

 兼続は天正16年(1588)4月、景勝のお供をして上洛した時、前の妙心寺住職南化玄興和尚に会って、古文真宝抄(先秦以後宋までの詩文を集めたもの)21冊を借りて筆写した。これをみた南化和尚は感心して兼続に序文を与え、その後、二人の交際は更に深くなった。
 文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮征伐の時、兼続は景勝に従って肥前名護屋に約2ヶ月滞在した。その時、兼続は漢方医学の本「済世救方」300巻を一夜借りて手分けして筆写させた。兼続は慶長12年(1607)3月、「文選」31冊(梁の昭明太子編、中国の秦、漢、三国の代表的文章や詩を集めたもの)を京都醒井通綾小路南、日蓮宗要法寺の活字で印刷させた。これによって読書界に貢献したものである。また、兼続は岩城の九山和尚と宇都宮で知り合って和尚に金を与えて下野足利学校で勉強させた。終業後、米沢によんで米沢禅林寺の開山として迎え、禅林文庫を設けて、九山を指導者として藩士子弟の学問修業の道場とした。これらをもって兼続は、米沢に学問尊重の種をまいてくれた恩人とみてよいと思う。

 慶長9年(1604)9月、兼続は近江国住友村から吉川総兵衛、和泉国堺から和泉屋松右衛門という鉄砲つくりを米沢に呼び、200石ずつ与えて、城下から約16キロメートル離れた白布高湯で鉄砲製造させ、10年間に約千挺製造させたと伝えられている。また、鉄砲打ちの稽古も奨励し、年に何回か鉄砲打ちを藩主が御覧になり、成績の良いものに褒美を与えるようにもした。米沢はこの後も鉄砲を重んずることとなった。
 元和元年(1615)正月元旦、兼続、年56を迎え、歳徳神殿御宝前に「天地和合の楽しみ、君臣合体の楽しみ、武運長久の楽しみ、子孫繁昌の楽しみ、祈願成就の楽しみ」を祈願されたが、その年7月12日嫡子、平八景明は看病の甲斐もなく年22で病没した。

 兼続は元和5年(1619)10月、病となり、名医の治療も、その甲斐なく、その年12月19日、年60で江戸鱗屋敷で病没した。法名、達三全智居士(後に英貔院殿おくられる)という。景勝は香典銀50枚を供え、将軍秀忠も銀70枚を供えた。遺骨は高野山清浄心院の上杉家墓地の西隣に納めた。墓は米沢徳町徳昌寺(現、長慶寺の所)につくられた。

 妻「お船の方」は兼続の没後、上杉家から3000石を与えられ、江戸鱗屋敷に住んだ。19年後の寛永14年(1637)正月4日、年81で病没した。法名、宝林院殿月桂貞心尼大姉という。遺骨は高野山の兼続の傍らに納めた。

 現在、兼続夫妻の墓は米沢林泉寺境内にある。大正13年2月、兼続に従四位追贈され、昭和13年4月、松岬神社に配祀された。


米澤人國記<中・近世篇> 米沢市史編集資料より